種子島時尭女(島津義久後室)
生年不明〜元亀3(1572)年12月23日<享年不明>
<略歴>
種子島時尭の次女。同母姉に伊集院忠棟の先室がいる。
島津義久は、当初叔母に当たる島津忠良女を妻としていたが彼女が永禄2年(1559年)11月18日に早世した後、種子島時尭の次女を後の正室とした。彼女の母と義久の父・島津貴久は同母兄弟であり、従兄弟同士のこれ又近親婚であった。
また、彼女は祖父・島津忠良の養女として義久の妻となったとも言う(『戦国大名閨閥事典』「島津氏」三木靖氏解説による)。この説に依れば、義久と種子島時尭女の結婚は名目上では先に続く「叔母と甥の結婚」ということとなり、全く戦国時代の政略結婚としての意味を為していない。
このように複雑な関係の夫婦であったが、彼女は義久との間に永禄6年(1563年)に義久の次女(後の島津新城)を、元亀2年(1571年)には義久の三女(島津亀寿)を産んだ。しかし、彼女も亀寿出産の2年後に早世。以後、義久が跡継ぎとなる男子はもちろん1人の子供も儲けなかったことは島津家の家督争いに大きな影を落とすこととなった。そのことで後に豊臣政権に家中に介入されるきっかけをも与えることになってしまう。
彼女にはいくつかの墓所が伝えられているが、その中の一つは何故か京都の本能寺にある。彼女の実家・種子島家が熱心な法華宗信者だったことに由来すると考えられるが、誰がこの墓を築いたのかは不明。
意味がなかったかも知れない”政略結婚”といい、墓所建立地の不思議といい、謎の多い女性である。
年度 (日本歴) |
年度 (西暦) |
年齢 | 出来事 | 出典 |
(年度不明) | 誕生。父・種子島時尭、母・島津忠良三女 | 「種子島家譜」時尭 「御家譜」忠良 「島津氏正統系図」忠良三女 |
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弘治2頃 | 1556 | 両親が離婚 | 「島津氏正統系図」忠良三女 「種子島家譜」時尭 |
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永禄5? 1月21日 |
1562? | 従兄弟に当たる島津義久(永禄5年当時30歳)の後室となる この時西村時興、古市舎人、梶原主水ら※が種子島よりお付きの侍としてつき、国上氏女(一の台)、河東氏女ら数十名の女性をお付き女中とする |
「種子島家譜」時尭 | |
永禄6年 6月16日 |
1563 | 義久の次女(後の島津新城)出産 | 「島津氏正統系図」義久次女 | |
元亀2辛未 4月25日 |
1571 | 義久の三女・島津亀寿出産 | 「島津氏正統系図」義久三女・亀寿 | |
元亀3壬申 12月23日 |
1572 | 死去。法号「円信院殿妙連大姉」 | 「種子島家譜」時尭 | |
法号(別伝)「円信院殿実渓妙蓮大姉」 | 「御家譜」十六代義久 |
※ちなみに西村時興は後に種子島に帰島したが、古市舎人と梶原主水はそのまま残り、結局国分(現鹿児島県国分市)に住んで義久付きとなった模様(「種子島家譜」時尭)。
<墓所>
本能寺(京都府京都市中京区)
福昌寺跡(鹿児島県鹿児島市)
遠寿寺(鹿児島県国分市)