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島津新城(島津彰久室、”うちはは”、清水(きよみず)、玉姫?)

永禄6年(1563)癸亥6月16日〜寛永18年(1641)辛巳8月15日<79歳>

<略歴>
島津義久の次女。結婚後は居所から「新城」と呼称された。幼名は「玉姫」という説もある(『鹿児島県姓氏家系大事典』『「さつま」の姓氏』)
島津以久の嫡男・彰久の妻となり、忠仍(後に久信と改名)を産む。しかし文禄の役で彰久は客死、若くして未亡人となった。その後再婚せずに一人息子・久信を守りたてて、以久の建てた佐土原藩も相続しなかった。島津本家の家督相続を狙ったためのようだが、当時の当主で従兄弟に当たる島津家久(忠恒)と対立して失脚。その後は本家に圧迫され、久信や孫達の多くも先だって夭折・変死し、失意の生涯を送った。

<年譜>
年度
(日本歴)
年度
(西暦)
年齢 出来事 出典
永禄6年
6月16日
1563 誕生。父・島津義久、母・島津忠良養女(実は種子島時尭女) 「島津氏正統系図」
天正2
10月22日
1574 12 島津以久が長男・彰久との婚約を父・義久に申し入れる 「上井覚兼日記」
天正2
10月23日
上記の件について、父・義久が老中達と相談し、占いの後、老中と談合することとなる 「上井覚兼日記」
(年度不明、
天正2〜天正12)
1574〜1584 又従兄弟の島津彰久と結婚 「島津氏正統系図」
「諸氏系譜」3忠将「彰久」
天正13年 1585 23 長男・忠仍(後の島津久信、信久)出産 「諸氏系譜」3忠将「彰久」
「旧記雑録」後編2−2
「旧記雑録」後編5−685
文禄2
6月14日
1593 31 朝鮮出兵に従軍中の夫・彰久から菊寿(=忠仍)の教育についての指示と、池上への連絡を依頼する内容の手紙をもらう 「旧記雑録」後編2−1141
文禄4年
7月5日
1595 33 夫・彰久が朝鮮・巨済島で客死(享年29歳) 「征韓録」
「旧記雑録」後編2−1558,1575〜1576
「諸氏系譜」3忠将「彰久」
文禄4
8月21日
文禄検地に伴う領地替えについて父・義久からあたき殿(石田三成家臣・安宅秀安か)に手回ししておくこと、菊壽丸の御機嫌を伺う手紙をもらう 「旧記雑録」後編2−1578
慶長元 1596 34 父・義久から近衛信尹に着せるために赤い小袖を借りたい旨所望される 「旧記雑録」拾遺1−88
慶長7
11月5日
1602 39 平田増宗が「お家のため」に島津忠仍をもり立てることを起請する 「旧記雑録」後編3−1737
慶長7壬寅 孫・島津久敏誕生(父・島津忠仍、母・島津家久三女 「諸氏系譜」3忠将「久信」
(年度不明
慶長13年以前)
〜1608 〜45 息子・忠仍が妻・島津家久三女と離婚 「島津家正統系図」島津家久三女
慶長14 1609 46 孫・菊袈裟丸(=袈裟菊丸とも。後の島津久敏)が島津家久(忠恒)の名代として江戸に人質となる 「旧記雑録」後編4−670
慶長15
2月21日
1610 47 孫・菊袈裟丸が北郷忠能と交代して帰国するも、途中伏見で足止めされる 「旧記雑録」後編4−670〜671
「薩藩旧士文章」35
慶長15
4月9日
義父・島津以久が京で客死
徳川幕府より忠仍が後継者に指名されるが、新城の老齢などを理由に固辞する
「旧記雑録」後編4−683〜686,758〜759
慶長16
1月9日
1611 48 叔父・島津義弘に年頭挨拶として酒一樽を持参させて使者を送る 「旧記雑録」後編4−791
慶長16
1月21日
叔父・島津義弘に酒一樽とその他1折を送る 「旧記雑録」後編4−791
この日、父・義久が死去(享年79歳) 「島津氏正統系図」その他頻出
慶長16
3月27日
息子・忠仍が島津本家の家督相続を狙ったと疑われ、伊勢貞昌に弁解の起請文を送る 「旧記雑録」後編4−814
慶長17
6月16日
1612 49 息子・忠仍と孫・菊袈裟丸が島津本家の家督相続を狙ったと疑われ、比志島国貞に弁解の起請文を送る 「旧記雑録」後編4−905
「薩藩旧士文章」9
寛永元
9月8日
1624 61 鹿児島城に参上、家久七女・千亀(5歳)を島津家久の直命により孫・島津久章婚約者として養女にする
この時、父よりもらった化粧領を祝儀として家久にいったん献上し、久章・千亀夫婦の領地として相続させたい旨言上し入れられる
「末川家文書 家譜」久章
寛永元甲子
10月13日
孫・島津久敏江戸で客死(享年23歳)
跡目は家久(忠恒)の息子・島津忠紀(母は島津忠清女)が相続
「旧記雑録」諸氏系譜3忠将「久信」
寛永13
12月24日
1636 73 島津久章が千亀と結婚 「末川家文書 家譜」久章
寛永14
4月9日
1637 74 島津家久が島津久章の結婚祝いに島津久元・御下夫婦、島津忠紀夫婦と共に久章邸を訪問 「末川家文書 家譜」久章
寛永14
5月11日
島津久信死去(享年53歳) 「諸氏系譜」3忠将「久信」
「毒買」とされ、暗殺された物と思われる 「薩藩旧士文章」61
寛永16己卯
11月26日
1639 77 曾孫・菊千代丸(後の島津忠清)誕生
父・島津久章、母・島津家久七女・千亀(母は島津忠清女
「旧記雑録」後編6−81
寛永17
5月17日
1640 78 孫・島津久章が島津光久の使者として帰国途上の京から、突如失踪する 「旧記雑録」後編6−128〜129、131〜132
「薩藩旧士文章」106〜107
寛永17
7月10日
孫・島津久章が、高野山蓮金院にたどり着いたところを捕まる
この時蓮金院では島津家久の法要のため大勢の家臣が高野山に詰めていた
「旧記雑録」後編6−149〜151
寛永17
9月22日
久章室(島津家久七女・千亀)を養女として領地を相続させたい旨を伊勢貞昌に訴える
この手紙の中で「不幸続きで発狂しそうである」とも書いている
「薩藩旧士文章」61
寛永18
8月15日
1641 79 垂水にて死去。法号「瑚月浄珊庵主」 「島津氏正統系図」
「旧記雑録」後編6−202〜203
冨山助兵衛が後を追って殉死した
殉死したのは留山助兵衛、女中(姓名未詳)2名という説もある 「垂水島津家家譜」彰久
「末川家文書 家譜」信久

<墓所>
・浄珊寺跡(現 鹿児島県垂水市)
 ちなみに元々島津新城が父・島津義久のために建てた菩提寺「貫明寺」が原型。新城島津家代々の墓所でもある。

島津新城の幼名を「玉姫」「お玉」という説については、五味克夫氏が「当時の史料には見えず、島津家久(十八代当主)書状等に見える”たる水にて参る”の「たる」を「たま」と間違って伝えた物ではないか」という説を提唱されている。(『鹿児島県史料』家分け11概説)

この書状は宛名書きが「むもし(=娘)」とだけなっており、宛先の判断が難しい。この頃に薩摩在国の義久の娘としては文禄2年頃に薩摩に送還された島津御平か、島津彰久室となっていた島津新城が考えられる。

桃園恵真氏はこの菊袈裟丸を後の島津久章(新城家初代)に比定している(『鹿児島大学法文学部紀要』1「持明夫人」)が、慶長14年当時6,7歳(「旧記雑録」後編4−670)と書かれている菊袈裟丸とは年齢が合わない。後の島津久敏とするのが正しいと思われる。

この時の書状では島津忠仍(後の島津久信)が穏便に島津忠興(島津以久三男)に佐土原藩主位を禅譲したように見えるが、佐土原藩側の史料ではかなり激しい相続争いがあった模様。(『宮崎県史』『宮崎県の歴史』等参照)

島津忠紀の妻は桂久盛(忠能)の一人娘。

冨山助兵衛(留山助兵衛と同一人物と思われる)は「末川家文書 家譜」によると幼少時に朝鮮出兵にあい日本に連行され、その後島津義久→島津新城に仕えた人物という。新城に養育された恩義から跡を追って殉死したと同書にはある。


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