国上時通女(一の台、一之臺、一之大)

天文6(1537)年〜元和5(1619)年8月15日(享年83)

<略歴>
永禄5年頃、島津義久の後妻となった種子島時堯女に同行した女中の1人。時堯女の死後も引き続き義久に仕え、勲功著しかったらしく1000石という奥女中としては破格の褒賞を賜った。その領地は後に養子に相続されたところから、一生独身であったと思われる。
権威は絶大であったらしく、義久の弟・義弘からも「御一臺様」と尊称で呼ばれていた。島津家久(忠恒)は「一の台」宛に何通か手紙を送っている(「旧記雑録」追録1−737〜738)
また、義久との結びつきが非常に強く、自領に見隆寺を建てたときにはそこに義久の位牌と供養塔を安置したという(「諸家系図文書」4「種子島氏支族」美座対馬守時重二男国上氏系図)。なお、義久の死後に亀寿に引き続き仕えたかどうかは史料が無く判然としない。

国上氏は種子島氏の支流の一つ。祖父・国上時宜は種子島時里(種子島氏8代・時清六男)の次男という。(「種子島家譜」、『「さつま」の姓氏』)

なお、義久には島津忠良女、種子島時尭女の2人の正室の死後も正室がいたことが史料から確認できるが、国上時通女がこの”第3の正室”だったかどうかについては、なお検討が必要であろう。


<年譜>
年度
(日本歴)
年度
(西暦)
年齢 出来事 出典
天文6 1537 誕生 父・国上時通 母不明 「種子島家譜」久尚 9「鹿児島役所連書」
「諸家系図文書」4「種子島氏支族」美座対馬守時重二男国上氏系図
永禄5?
1月21日
1562? 26 島津義久の後室となった種子島時尭女に同行し、お付き女中となる 「種子島家譜」時尭
天正12
1月12日
1584 48 奥に参上した島津家久(中務大輔)、上井覚兼にお酌をする 「旧記雑録」後編1−1386「上井覚兼日記」
文禄2
6月26日
1593 57 義久が不在の間、鹿児島城の奥向きのことは一の台に報告するよう、義久が長寿院盛淳、町田久倍、鎌田政近に命ずる 「旧記雑録後編」2−1151
「町田氏正統系譜」255「島津龍伯書状」
(年度不明) 義久室に使えた功績により義久から采地千斛を与えられる 「種子島家譜」時尭
多年の功績により小浜村(現鹿児島県霧島市)に1000石を賜る 「諸家系図文書」4「種子島氏支族」美座対馬守時重二男国上氏系図
(年度不明、
天正4年以降)
伊勢長門守次男(伊勢主水佐時盛)を養子とし、義久からもらった領地千斛を相続する 「種子島家譜」時尭
「諸家系図文書」4「種子島氏支族」美座対馬守時重二男国上氏系図
慶長4 1599 63 菩提寺として見隆寺を国分(現・鹿児島県霧島市)に建立
法名「喜見院妙隆」
「種子島家譜」久尚 8「国分遠寿寺届書」
(年度不明
慶長10頃?)
1605 69 一臺の件についての決定が遅れ気味なのを急ぐように督促する書状が島津義久から島津義弘に送られる(用件内容未詳) 「旧記雑録」後編4−127
慶長16
1月5日
1611 75 島津義弘から伝言をもらう 「旧記雑録」後編4−791「加治木御日記」
慶長16
1月6日
島津義弘より樽2つ折2合の年賀挨拶をもらう 「旧記雑録」後編4−791「加治木御日記」
慶長16
1月8日
島津義弘に島津義久の容態が回復したことを知らせる 「旧記雑録」後編4−791「加治木御日記」
慶長16
1月15日
島津義弘から波多喜介を義久のご機嫌伺いの使者として送られる 「旧記雑録」後編4−791「加治木御日記」
慶長16
1月19日
島津義弘に飯牟礼紀伊助を使わし、義久の容態を知らせる 「旧記雑録」後編4−791「加治木御日記」
島津義久死去(享年79) 「旧記雑録」後編4−791「加治木御日記」その他頻出
慶長16
1月24日
島津義弘に使者・指宿壱岐守を使わす 「旧記雑録」後編4−791「加治木御日記」
慶長16
1月29日
島津義弘の使者・根占喜蔵から伝言を伝えられる 「旧記雑録」後編4−791「加治木御日記」
元和2
8月初二日
1616 80 遠寿寺に石灯籠を寄進 旧遠寿寺石灯籠銘文
元和5
8月15日
1619 83 死去 「諸家系図文書」4「種子島氏支族」美座対馬守時重二男国上氏系図

<墓所>
・遠寿寺(現 鹿児島県霧島市国分)(?)
 種子島時尭次女(島津義久後室)墓の横に「喜見院」銘のある墓碑が残っているという(「御祭祀提要」)。この墓碑には「慶長十二年丁未 (中略) 喜見院浩隆 逆修」と刻まれている(『国分郷土誌 資料編』)

ちなみに「上井覚兼日記」では「一之大」と書かれている。

「国分遠寿寺届書」によると見隆寺は「御一之臺様」こと喜見院妙隆の生前よりの祈願所であり、島津義久と義久後室(種子島時尭女)と喜見院の位牌を祀っていたという。ちなみに江戸中期に編集された「国分諸古記」や江戸末期に書かれた「諸寺記」(『国分郷土誌 資料編』所収)には”見隆寺”は見あたらず、早くに廃絶したと思われる。

『国分郷土誌 資料編』p.884参照

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