島津忠良女(種子島時尭室 後 肝付兼盛室、御西?)

生年不明〜天正11(1583)年癸未1月15日

<略歴>
島津家再興に尽力した島津忠良の三女。『加治木郷土誌』『加世田市史』等では「お西様」と言う通名を書いているが、忠良三女が生きていたころに書かれた史料では実名を確認できない。大正時代に書かれた島津家の先祖供養名簿「御祭祀提要」に「御西様」と出ているのが初出のようである。

種子島の島主・種子島時尭に嫁ぎ女子二人を儲けるが、時尭が大隅の有力大名・禰寝氏の娘を側室とし男子を儲けていたことが発覚(「種子島家譜」)、怒った彼女は実家に帰ってしまった。その後、娘を実家に置いて肝付兼盛に再嫁。しかし彼とも程なく離婚し、晩年は父・島津忠良の本拠である伊作で過ごした。
種子島時尭との間に生まれた娘二人は島津家家老・伊集院忠棟、島津家16代当主・島津義久に嫁ぎ、後の島津家を支えるはずだったと思われるが夭折してしまい、母親の方が長生きした。

<年譜>
年度
(日本歴)
年度
(西暦)
年齢 出来事 出典
(年度不明) 誕生。父・島津忠良、母・島津重久女(御東) 「諸氏系譜」忠興 忠良三女
(年度不明) 種子島時尭と結婚 「島津氏正統系図」
「種子島家譜」時尭
(年度不明) 長女(伊集院忠棟先室)を産む 「種子島家譜」時尭
(年度不明) 次女(島津義久後室)を産む 「島津氏正統系図」義久
「種子島家譜」時尭
弘治2頃 1556 夫・種子島時尭が側室・禰寝氏との間に男子を儲けていたことを知り、娘2人を連れて実家に戻る 「島津氏正統系図」
「種子島家譜」時尭
(年度不明
永禄元以前)

1558
肝付兼盛と再婚
兼盛は大隅の戦国大名・肝付氏の分家出身で、父・兼演の代から島津家の配下であった
「諸氏系譜」忠興 忠良三女
「島津家正統系図」
「旧記雑録」家分け2 肝付家文書肝付世譜雑録
永禄元戊午 1558 肝付兼盛の長男・袈裟寿丸(後の肝付兼寛)出産 「旧記雑録」家分け2 肝付家文書伴姓肝付氏系譜
永禄5?
1月21日
1562? 種子島時尭との間の次女が甥・島津義久の後室となる 「種子島家譜」時尭
(年度不明) 肝付兼盛と離婚、父・島津忠良のいる伊作へ移る 「旧記雑録」家分け2 肝付家文書肝付世譜雑録
天正11癸未
1月15日
1583 死去。法号「椿窓妙英大姉」 「諸氏系譜」忠興 忠良三女
天正11癸未
閏1月14日
伊作にて死去 「旧記雑録」家分け2 肝付家文書肝付世譜雑録
天正11
閏1月19日
多宝禅寺に葬られる
その後加治木に菩提寺・椿窓寺(現在廃寺)が建立される
「旧記雑録」家分け2 肝付家文書肝付世譜雑録

表紙に戻る 人名索引へ戻る 人名索引「し」に戻る