島津亀寿(島津久保室 後 島津忠恒<家久>室、御上、国分、国府)
元亀2(1571)年4月26日〜寛永7(1630)年10月5日<享年60歳>
<略歴>
島津本宗家16代・島津義久の三女。初名「亀寿」、結婚後は「御上(おかみ)様」、慶長16年以降は居所から「国分(国府)様」「国分御上様」などと呼ばれるようになる。幼名が系図にも明記されて伝わっている女性は島津家でも非常に珍しい。この幼名、通常「かめじゅ」と呼ばれることが多いが、島津義弘の長男の幼名「鶴寿丸」は「つるひさまる」と呼ぶ(『えびの市史』石塔編)資料もあることから推測すると、実際は「かめひさ」と読んでいた可能性もある。また、「御上」の語源は後述するように島津家の家督相続決定権を所有していたことによる尊称と思われ、叔父で舅の島津義弘からもこの尊称で呼ばれている。
天正16年に島津家が豊臣秀吉の前に敗北すると、秀吉の指名により上洛し人質となる。しかし、細川幽斎の取りなしによりこの時は1年で帰国。
早くから本宗家を継ぐために島津家のしかるべき男子と結婚するように決められていたらしく、当初従兄弟の島津久保と結婚する。が、久保は文禄2年に朝鮮で客死。その直後に久保の弟・忠恒と再婚する。これは豊臣秀吉の意向を受けた石田三成の画策による物で、亀寿の意向はもちろん、島津家当主である父・義久の意向すら問わずに勝手に決められた物であった(「町田氏正統系譜」久倍など)。
久保が朝鮮に渡った文禄元年頃から再び上洛、島津義弘室(宰相殿)と共に人質となる。関ヶ原の合戦時は石田三成によって大坂城下に捕らわれていたが脱出、敗走中の義弘らと西宮(現・兵庫県西宮市)で合流し、薩摩へ帰国する。
帰国後は忠恒(慶長7年改名。以後「家久」)夫人として家中に重きを為すが、次第に島津家家督を巡って忠恒(家久)との対立が激化、甥・島津忠仍(後改名して久信、島津新城子)を次期当主に指名しようとしたらしい。が、父・義久が慶長16(1611)年に死去したことで後ろ盾を失った亀寿は、本城である鹿児島城から追放され父の居城だった国分(現・鹿児島県国分市)に別居させられ、事実上忠恒(家久)の正室の座を追われる。
しかし島津家の歴代財産は彼女が相続し、後継者決定権も彼女が保持していたようで、後に義久の玄孫に当たる島津光久(幼名「虎寿丸」、島津家久(忠恒)の次男(母・島津忠清女、島津御平曾孫)を養子とし、後継者として指名した。
島津家の歴代夫人の中でも別格の扱いであったらしく、島津家の女性としては珍しく肖像画が残っており、それは明治初頭に鶴嶺神社(現 鹿児島市)に移管されたが、残念なことに西南戦争で官軍に強奪され現存していない(「資料紹介 諸神社明細」『尚古集成館紀要』3)ため、彼女の容貌を知る手段は現在無くなってしまった。逸話では非常な醜女であったと言われるが、肖像画を失った今、それは永遠の謎である。
母は彼女が2歳の時に死去、仲の良かった最初の夫・久保は客死、次の夫・忠恒(家久)とは非常な不仲、と家庭運に恵まれない不幸な生涯であった。そのためか国元では同情の声が高く、今でも「持明様(じめさあ)」の伝説が各地に伝わっている。
忠恒(家久)には、彼女の死後の法要もちゃんとして貰えないほど憎まれていたらしい。
年度 (日本歴) |
年度 (西暦) |
年齢 | 出来事 | 出典 |
元亀2辛未 4月25日 |
1571 | 1 | 誕生 父・島津義久、母・種子島時尭女(島津忠良養女) 「亀寿」と名付けられる |
「島津氏正統系図」 |
元亀3壬申 12月23日 |
1572 | 2 | 母・種子島時尭女が亡くなる | 「種子島家譜」時尭 |
天正15 4月 |
1587 | 17 | 豊臣秀吉が島津家との戦いのため九州に遠征(九州御動座)、混乱を避けるため吉田城に避難する | 「町田氏正統系譜」久倍 |
天正15 5月15日 |
島津家が豊臣秀吉の前に敗北、秀吉の命により人質として上洛を命じられる | 「島津氏正統系図」 「町田氏正統系譜」久倍 「諸氏系譜」北郷氏 時久 |
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天正15 5月16日 |
泰平寺に詣で、その後京にむかう | 「町田氏正統系譜」久倍 | ||
天正16 9月3日 |
1588 | 18 | 細川幽斎の取りなしによって帰国 父・義久の和歌によって秀吉が動かされたからと伝わる |
「島津氏正統系図」義久 |
天正16 9月8日 |
大坂城に登城 豊臣秀吉と北政所に面会、北政所から着物、香蔵上(孝蔵主?)から帯をもらう |
「旧記雑録」後編2−510「天正拾六年御日記」 「島津氏正統系図」義久 |
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天正16 9月10日 |
堺(現・大阪府堺市)を出港 | 「旧記雑録」後編2−510「天正拾六年御日記」 | ||
天正16 9月11日 |
父・義久に夕食を振る舞う | 「旧記雑録」後編2−510「天正拾六年御日記」 | ||
天正16 9月14日 |
戌刻の頃に西宮(現・兵庫県西宮市)に到着 | 「旧記雑録」後編2−510「天正拾六年御日記」 | ||
天正16 9月16日 |
父・義久の船に追いつけず、室津港の2里沖で足止めを食う | 「旧記雑録」後編2−510「天正拾六年御日記」 | ||
天正16 9月18日 |
夜明け頃、室津港(現・兵庫県御津町)に入港 | 「旧記雑録」後編2−510「天正拾六年御日記」 | ||
天正16 9月19日 |
酉刻頃、牛窓港(現・岡山県牛窓町)入港 | 「旧記雑録」後編2−510「天正拾六年御日記」 | ||
天正16 9月22日 |
日向沖辺りで、お供衆や船頭達に酒を振る舞う | 「旧記雑録」後編2−510「天正拾六年御日記」 | ||
天正16 9月23日 |
上の関(場所不明)で海流が悪いため足止めをくらい、父・義久と共に阿弥陀寺に宿泊する | 「旧記雑録」後編2−510「天正拾六年御日記」 | ||
天正16 10月5日 |
深夜子の刻頃に細島(現・宮崎県日向市)に到着する | 「旧記雑録」後編2−510「天正拾六年御日記」 | ||
天正16 10月14日 |
鹿児島に帰還 | 「島津氏正統系図」義久 | ||
天正17? | 1589 | 19 | 島津久保とこの頃結婚か? 久保は叔父・義弘の次男であり、従兄弟の関係であった |
「島津氏正統系図」久保 |
天正18 2月28日 |
1590 | 20 | 夫・久保が小田原北条氏攻めのためにかり出される | 「島津氏正統系図」久保 「御家譜」十八代家久 |
天正19 正月? |
1591 | 21 | 久保夫妻の上洛の件が問題となる | 「旧記雑録」後編2−725〜726 |
天正19 2月 |
島津久保一人だけ先に上洛するという話が持ち上がり、風聞もあるため亀寿にも連絡をしたが返信が無い旨、義久から義弘へ連絡がある | 「旧記雑録」後編2−740 | ||
天正19 2月16日 |
島津義弘が久保/亀寿夫妻の御続料(賄い料)など手配するよう要望する手紙を新納忠元へ託す | 「旧記雑録」後編 2−801「新納忠元勲功記」 | ||
島津義弘が久保・亀寿夫妻の上洛について新納忠元と鎌田政近で熟談するよう依頼する | 「旧記雑録」後編 2−735 「諸氏系譜」新納氏 忠元166 |
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天正19 | 夫・久保と共に上洛を命ぜられるが、国元の混乱などにより流れる | 「町田氏正統系譜」久倍 231「町田久倍書状」 | ||
天正20 1月26日 |
1592 | 22 | 夫・久保と共に上洛を命じられているが、財政逼迫のために難しい状況であると、島津義久が安宅秀安・麻生吉左衛門らに書状を送る | 「旧記雑録」後編2−816 |
天正20 3月14日 |
石田三成が亀寿が上洛しないことに対し、豊臣秀吉の不興を買っている旨伝える | 「旧記雑録」後編2−843 | ||
天正20 3月26日 |
島津義弘が3年前から延び延びになっている亀寿の上洛について“御家のため”に早く上洛させるよう伊集院忠棟に依頼する | 「旧記雑録」後編2−844 | ||
文禄元 3月 |
夫・久保が秀吉の命により朝鮮に渡る | 「島津氏正統系図」久保「御家譜」十八代家久、「征韓録」その他頻出 | ||
再び人質となるため上洛 | 「旧記雑録」後編2−897 「町田氏正統系譜」久倍 264「近衛前久書状」 |
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文禄元 3月? |
日向舟元にて船が無く足止めされる | 「旧記雑録」後編2−845 | ||
文禄元 6月9日 |
上洛後、近衛前久邸に引き取られる | 「旧記雑録」後編2−897 | ||
文禄2 9月8日 |
1593 | 23 | 夫・久保が朝鮮・巨済島にて病死(享年21歳) | 「島津氏正統系図」久保「征韓録」その他頻出 |
文禄3 3月7日 |
1594 | 24 | 義弟・忠恒の上洛→朝鮮出兵と同じ頃に父・義久の上洛が重なることから、石田三成が「(忠恒の)御縁中を定め、御祝儀も相済ませその後渡海すべきとの思し召しである」旨、伊集院忠棟に申し渡しがある | 「旧記雑録」後編2−1288 |
文禄3 5月24日 |
このころ豊臣秀吉の命により大坂に留め置かれる | 「町田氏正統系譜」久倍 265 「島津義久書状」 | ||
文禄3 6月 |
豊臣秀吉の命により島津忠恒(後の島津家久)と再婚 忠恒は叔父・義弘の三男であり前夫・久保の弟 |
「島津氏正統系図」 「諸氏系譜」新納氏 長住 |
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文禄3 7月17日 |
伊集院幸侃(忠棟)が石田三成の前で亀寿を”早く申請すべきである”といったという※ また内城(現鹿児島市)にいる奥女中から亀寿の供をする者を選ぼうとしたが適当な人物がいないと報告される |
「旧記雑録」後編2−1351 | ||
文禄3? 10月13日 |
叔父(舅)・義弘が亀寿の京都での生活ぶりについて石田三成に相談する | 「旧記雑録」後編2−1403 | ||
文禄4 2月7日 |
1595 | 25 | 近衛前久が忠恒に亀寿の無事を知らせる | 「旧記雑録」後編2−1461 |
文禄4 2月17日 |
父・義久が亀寿付きとして7年も在京中の平田宗位夫妻に対して感状を送る | 「旧記雑録」後編2−1462 | ||
文禄4 2月21日 |
「旧記雑録」後編2−1463 | |||
慶長元 1月15日 |
1596 | 26 | 正月の挨拶の使者として町田久倍を近衛前久の元に使わす | 「町田氏正統系譜」久倍 276「近衛前久書状」 |
慶長4 2月20日 |
1599 | 29 | 叔父・島津義弘の命で、薩摩国日置郡串木野村、荒川村、羽島村(以上現いちき串木野市)、伊集院谷口村(現日置市)合計5000石を、人質に対する褒賞として無公役で進上される | 「旧記雑録」後編3−660 |
慶長4 3月25日 |
島津義久が亀寿の件について石田三成からお墨付きをもらおうとするがもらえず、小西行長を頼るよう島津忠恒・義弘に懇願する | 「旧記雑録」後編3−692 | ||
慶長4 3月29日〜 |
庄内の乱勃発 | 「庄内陣記」その他頻出 | ||
この日以前より病気となり、祐乗坊出仙により祈祷される | 「旧記雑録」後編3−693 | |||
慶長4 8月10日 |
亀寿付きの家臣に対する扱いに関して義久、義弘、忠恒で意見の相違があったらしく義久が義弘に手紙を送る 「三清(=本田親貞)夫妻」や「存松(=町田久倍)夫妻」が亀寿付きとなっていたことが分かる |
「薩藩先公貴翰」57 | ||
慶長4 9月28日 |
病に倒れる 叔父・島津義弘の命によって本覚坊によって祈祷され程なく回復する |
「旧記雑録」3−896 | ||
慶長4 10月7日 |
この頃、病が完治せず | 「旧記雑録」後編3−930 | ||
慶長4 10月25日 |
病に伏せるが、程なく回復する | 「薩藩先公貴翰」205 「庄内陣記」 |
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状態が本復しないため島津義弘の命で中性院によって祈祷が行われる | 「旧記雑録」後編3−943 | |||
慶長4 12月4日 |
この頃、病が完治せず | 「旧記雑録」後編3−966 | ||
慶長4頃 | 人質に対する褒美として1万石を無公役で与えられる | 「旧記雑録」後編5−1860 | ||
慶長5 3月29日 |
1600 | 30 | 病気となり、「谷杉」なる祈祷師によって病気平癒の祈祷をされる この時「女の呪いによる祟り」という結果が出る |
「旧記雑録」後編3−1078 「町田氏正統系譜」久倍 293 |
慶長5 4月8日 |
この頃、病が完治せず | 「旧記雑録」後編3−1061 | ||
慶長5 7月14日 |
亀寿をどこかに避難させるべく島津義弘と島津豊久の間で相談が行われる | 「旧記雑録」後編3−1122,1125 | ||
慶長5 8月5日 |
島津義久が吉田清孝に亀寿付きを命じる | 「旧記雑録」後編3−1151 | ||
慶長5 8月16日 |
存松(=町田久倍)の病気のため亀寿付きの守役が不在状態となり、吉田美作守清孝が臨時の亀寿付きとなる | 「旧記雑録」後編3−1185 「町田氏正統系譜」久倍 294 「薩藩先公貴翰」211 |
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慶長5 8月19日 |
父・義久が上洛して亀寿と交代するという話があったが、世情不安のために流れる | 「薩藩先公貴翰」212 | ||
慶長5 8月21日 |
叔父・義弘が吉田清孝に町田久倍(存松)の帰国について亀寿とも相談するように書状を送る | 「旧記雑録」後編3−1161 「町田氏正統系譜」久倍 295 |
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慶長5 9月7日 |
吉田清孝を世情不安もあり正式に大坂の亀寿付き守役とする | 「薩藩先公貴翰」216 | ||
慶長5 9月15日 |
関ヶ原の合戦勃発 | 「惟新公関原御合戦記」その他頻出 | ||
慶長5 9月19日 |
園田清左衛門女(島津義弘室)の帰国の許可が下りるが、亀寿の帰国許可は下りず 女中・大田於松を替え玉として逃亡することに決定する |
「旧記雑録」後編3−1356「山田晏斎覚書」 「惟新公関原御合戦記」 「本藩人物志」女子伝 大田氏女 |
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慶長5 9月22日 |
島津義弘室(宰相殿)、秋月種実室と共に大坂を脱出し西宮で舅・義弘と合流 この時島津家の系図を持参する |
「惟新公関原御合戦記」 | ||
慶長5 9月26日 |
安芸日向泊(現・広島県)に到着 立花宗茂の艦隊と同宿する |
「惟新公関原御合戦記」 | ||
慶長5 9月27日 |
豊後沖合にて黒田孝高に西軍の艦隊と間違われ攻撃される | 「惟新公関原御合戦記」 | ||
慶長5 9月29日 |
日向国細島着 | 「惟新公関原御合戦記」 | ||
慶長5 9月30日 |
財部にて秋月種実室を秋月家に引き渡す | 「惟新公関原御合戦記」 | ||
慶長5 10月1日 |
佐土原→八代と移動 | 「惟新公関原御合戦記」 | ||
慶長5 10月2日 |
八代→大隅国曽於郡大窪村と移動 | 「惟新公関原御合戦記」 | ||
慶長5 10月3日 |
大窪村を出発、父・義久の冨隈城(現・鹿児島県霧島市隼人町)着 | 「惟新公関原御合戦記」 | ||
慶長5 10月4日? |
鹿児島に帰還 | 「惟新公関原御合戦記」 | ||
慶長11 5月1日 |
1606 | 36 | 家宝の「一文字の刀」を拝見したい旨義弘に要望する※ | 「旧記雑録」後編4−204 |
慶長11 6月18日 |
家久が京に送る人質を決めてなかったため、家久の帰国が遅れたことを報告する手紙を義弘に送る | 「旧記雑録」後編4−226 | ||
慶長13 4月9日 |
1608 | 38 | 園田清左衛門女(島津義弘室)の一周忌に、家久と共に菩提寺の不断光院(現在廃寺)に詣でる | 「旧記雑録」後編4−449 |
慶長16 1月9日 |
1611 | 41 | 島津義弘に年頭挨拶の使者として本田新介を使わす | 「旧記雑録」後編4−791 |
慶長16 1月21日 |
父・義久が死去(享年79歳) | 「島津氏正統系図」その他頻出 | ||
慶長16? 9月4日 |
叔父・島津義弘が亀寿の国分城での生活の窮状をみて伊勢貞昌に対策をとるように命じる | 「旧記雑録」拾遺1−286 「薩藩先公貴翰」231 |
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慶長16頃 | 島津忠清女と国分城で対面する | 「旧記雑録」家わけ2肝付氏「桃外院殿年譜雑伝」乾 | ||
慶長17 6月16日 |
1612 | 42 | 甥・島津忠仍(後・久信)とその息子・菊袈裟丸が比志島国貞に「島津本家家督相続の気はない」旨弁解の起請文を送る その文中で菊袈裟丸を亀寿の養子にすると言う噂があったことが書かれる |
「旧記雑録」後編4−905 |
慶長18 1月21日 |
1613 | 43 | 父・義久の3回忌法要を清水岡寺でおこなう | 「旧記雑録」後編4−984 |
慶長19 6月1日 |
1614 | 44 | 加治木の島津義弘御料人宛に手紙を送る | 「旧記雑録」後編4−1066 |
元和2丙辰 6月2日 |
1616 | 46 | 島津忠清女が家久の次男を出産、「虎寿丸」と名付けられる(後の島津光久) | 「島津氏正統系図」家久 |
元和5 2月7日 |
1619 | 49 | 亀寿に仕える諸士(国分衆)225名が連名で起請文を書く(起請内容不明) | 「旧記雑録」後編4−1574 |
元和5 7月21日 |
叔父で舅に当たる島津義弘が死去(享年85歳) | 「島津氏正統系図」その他頻出 | ||
元和7 1月 |
1621 | 51 | 「所願成就」を祈念し、父・義久墓所の金剛寺に鰐口1口を寄付する | 「国分諸古記」五峯山竜護院金剛寺 |
元和8 7月12日 |
1622 | 52 | 家久次男・虎寿丸を養子とし、私領一万石と歴代什宝の全てを虎寿丸に相続することを決定する | 「旧記雑録」後編4−1780〜1781 |
元和8 8月 |
徳川幕府の命により人質として江戸に東上するという噂が浮上する | 「細川家文書」9−107 | ||
寛永元 11月13日 |
1624 | 54 | 養子・光久が徳川幕府の命により人質となるため江戸に移住する | 「島津氏正統系図」「島津世家」その他頻出 |
寛永6 12月16日 |
1629 | 59 | 養子・光久が家老・伊勢貞昌の孫娘と結婚する | 「旧記雑録」後編5−279〜280 |
寛永7 秋頃 |
1630 | 60 | 体調を崩し、床に伏せるようになる | 「旧記雑録」後編5−328,331 |
寛永7庚午 10月5日 |
国分城にて死去。法名「持明彭窓庵主興国寺殿」 位牌は興国寺(現鹿児島県冷水町、現在廃絶)に安置される |
「島津氏正統系図」 「旧記雑録」後編5−328〜331 |
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寛永8 5月22日 |
1631 | − | 系図、島津忠久関連書状などの歴代什宝を山田有栄らに引き渡す | 「旧記雑録」後編5−401 |
寛永9 5月17日 |
1632 | − | 亀寿の遺骨を高野山に納骨するはずが放置されていることが島津光久に伝わり、光久の命で至急菩提寺の建設と納骨を進めるよう手配する | 「旧記雑録」後編5−516 |
寛永17 1月 |
1640 | − | 島津光久が家臣達に、毎月5日は亀寿の月命日のため菩提寺の興国寺に詣でるよう命ずる | 「旧記雑録」後編6−101 |
<墓所>
福昌寺跡(鹿児島県鹿児島市池之上町)
※原文は
「御料人様、幸侃いそき可申請之由、石治少様御前にて被仰之通、其聞候之事、」
とある。伊集院忠棟が”いそき可申請(急いで申請すべく/急いで申し請うべく)”した目的は何だったのか、この文章だけでは判然としない。後考を期す。
※この家宝「一文字の刀」は本来伊作城(現鹿児島県吹上町)に厳重に保管され、かつて島津貴久が鹿児島城に持っていこうとしたが御神託により伊作城に置かれたままだったという、かなり重要な物だったよう。しかしこの亀寿からの報告で、この宝物を忠恒が勝手に京に持ち出して見せびらかしていたことがばれ、その後忠恒は義弘にきつく怒られている。(「旧記雑録」後編4−204)