島津御屋地(”二郎相久”室 後 島津朝久室、幼名・千鶴)
天文23甲寅(1554)年〜寛永13(1636)年丙子11月11日<享年83歳>
<略歴>
島津義弘の長女。父・島津義弘と母・北郷忠孝女の離別と母の北郷時久との再婚により、幼少期は北郷家で成長した。一度「二郎相久」なる武士と結婚した。しかし、事情があって離縁させられたらしい。その後、親戚筋(母の伯父・島津忠親の子)に当たる島津朝久の後妻として再婚。しかし、朝久も文禄5年に朝鮮で病死した。1男2女を抱えた彼女はその後、夫亡き後の豊州家を支えるために強引とも言える圧力を弟の家久にかけ続けた。特に、末娘が家久の養女となって松平定行と政略結婚させられたことには非常に不満があったらしい。家久もかなりこの姉には気を使っていたらしく、頻繁に時節の見舞いの手紙を送っている。(「旧記雑録」追録1−427〜432)
島津家の重臣であった北郷三久は異父弟。三久の姉に当たる北郷時久次女(外城)は異父妹。
父・島津義弘の故地であった帖佐の館に住んだことから「御屋地」と称されるようになった(「旧記雑録」後編4−1860、「本藩人物志」島津朝久)。
年度 (日本歴) |
年度 (西暦) |
年齢 | 出来事 | 出典 |
天文23甲寅 | 1554 | 1 | 誕生。父・島津義弘(当時・忠平)、母・北郷忠孝女 | 「島津氏正統系図」 「旧記雑録」諸氏系譜2北郷氏「忠孝」 |
天文23甲寅 11月18日 |
(逆算により誕生日をこの日とする説あり)※ | 「旧記雑録」後編1−964、965 | ||
永禄元 11月4日 |
1558 | 5 | 祖父・北郷忠孝が伊東氏との飫肥新山の戦いで戦死する | 「旧記雑録」諸氏系譜2北郷氏「忠孝」 |
永禄11 7月 |
1568 | 15 | 大伯父・島津忠親が伊東氏との戦いに敗れ、庄内に退去する この頃父・義弘と母が離縁か? |
「旧記雑録」諸氏系譜2北郷氏「忠孝」 |
天正元 3月10日 |
1573 | 20 | 異父弟・北郷三久が誕生する。 | 「旧記雑録」諸氏系譜2北郷氏「時久」 |
(年度不明) | 「二郎相久」※と結婚するが、まもなく離縁させられる | 「旧記雑録」諸氏系譜2豊洲季久「朝久」 | ||
(年度不明) | 豊州家・島津朝久と結婚する | 「旧記雑録」諸氏系譜3豊州季久「朝久」 | ||
天正10 1月4日 |
1582 | 29 | 長男・久賀を出産 | 「旧記雑録」諸氏系譜2北郷氏「忠孝」 「本藩人物志」島津久賀 |
(年度不明) | 長女(島津忠倍室)を出産 | 「旧記雑録」諸氏系譜2北郷氏「忠孝」 | ||
(年度不明) | 次女(松平定行先室)を出産 | 「旧記雑録」諸氏系譜2北郷氏「忠孝」 | ||
文禄2 8月2日 |
1593 | 40 | 父・義弘から義母・園田清左衛門女経由で無事を安堵する伝言をもらう | 「薩藩先公貴翰」163 |
文禄3? 8月7日 |
1594 | 41 | 父・義弘から義母・園田清左衛門女経由で無事を安堵する伝言をもらう | 「薩藩先公貴翰」165 |
文禄5 5月1日 |
1596 | 43 | 父・義弘が御屋地のいる平松(現鹿児島県姶良町)屋敷が壊れているため修理させるよう命じる | 「薩藩先公貴翰」178 |
文禄5 7月29日 |
朝鮮にいる異母弟・忠恒に京都大地震の様子を知らせる | 「島津家文書」1407 | ||
文禄5 9月12日 |
夫・朝久が朝鮮で病死する(享年不明) | 「本藩人物志」島津朝久 その他多数所収 | ||
慶長10 3月19日 |
1605 | 52 | 次女が島津忠恒の名代として江戸に人質に出される この時忠恒は褒賞を与える旨約束する |
「旧記雑録」後編4−23 |
慶長10 8月9日 |
次女が松平定行と結婚することが決定する | 「旧記雑録」後編4−91 | ||
慶長11 6月19日 |
1606 | 53 | 伏見に人質に出されていた次女が島津忠倍(島津忠長・島津忠将次女夫妻の長男)と交代する | 「旧記雑録」後編4−227 |
慶長11 | 長女が島津忠倍との間に娘を出産 | 「旧記雑録」後編4−239 | ||
慶長14 5月18日 |
1609 | 56 | 婿・島津忠倍が病死(享年31歳) | 「旧記雑録」諸氏系譜3尚久「忠長」 |
慶長18 11月 |
1613 | 60 | 掛川城の松平定行に嫁いだ次女に説教の手紙を送る | 「薩藩先公貴翰」241 |
元和4 11月8日 |
1618 | 64 | 次女・松平定行室が桑名(現・三重県桑名市)で死去 | 「旧記雑録」後編4−1556〜1559 |
元和5頃 | 1619 | 65 | 父・義弘の口添えで島津忠倍女(御屋地孫)と島津久通(島津久元子・島津忠倍甥)を許嫁とすることになる | 「旧記雑録」後編5−1062 |
寛永元 10月14日 |
1624 | 70 | 故・次女の政略結婚に対して今に至るまで何も褒賞がないことを抗議する | 「島津家文書」1409 「旧記雑録」後編4−1890 |
寛永9 6月11日 |
1632 | 78 | 兵の分配に関して、御屋地の知行分の兵は息子・久賀が負担することが決められる | 「旧記雑録」後編5−532 |
寛永13 3月10日 |
1636 | 83 | 弟・島津家久より書状をもらう | 「旧記雑録」後編5−907 |
寛永13丙子 11月11日 |
死去。法号「実清正真」 | 「島津家正統系図」 「旧記雑録」後編5−952〜954 |
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寛永21甲申 3月22日 |
1644 | − | 長男・島津久賀死去(享年63歳) | 「旧記雑録」諸氏系譜3豊州季久「朝久」 「本藩人物志」島津久賀 |
※天正6年2月頃、島津義久の夢の中に「この時25歳の島津家の女性が毘沙門天の木像を持ってでてきた」という。伊地知季安の傍注に寄れば年齢から逆算すると該当する女性は御屋地しかいないという。なお、義久はこの夢によほど感激したのか、毘沙門天に縁のある京都・鞍馬寺に寺領を寄付している。
※島津御屋地の最初の夫「二郎相久」について、2ちゃんねる島津義弘スレ(該当個所のミラーはこちら)にて重要な指摘があった。彼は御屋地の義理の兄の北郷相久ではないか?と言う物である。北郷相久の字は「次郎」であり(「旧記雑録」諸氏系図北郷氏)、同一人物の可能性は高いと考えられる。御教示感謝。
北郷相久に関しては乙守氏女を参照されたい。相久は父・北郷時久と原因不明の不仲となり自殺に追い込まれた人物であり、御屋地ともこれが原因で離縁になったとも推測される。