義弘の妻って、広瀬氏とかだっけ。随分マイナーな家から嫁もらっている。
義弘レベルなら大友やら龍造寺とかでもよさげなのに、何か理由があったの
でしょうか?不思議です。
>>504 相良藩は西軍だったが、関ヶ原開戦前から家康公ともつながっていた。
この大名は九州三国志時代からこういう綱渡り的外交をやっている。
ある意味すごい
>>539 義弘の兄弟はみんな身近なところから妻を迎えていて、いわゆる政略結婚をしていないように見える。
以前の島津氏は大友など近隣の大名とも婚姻による交流があったんだよね。謎ではある。
ちなみに広瀬氏は養家先の姓で実家は園田氏。
園田氏は中下級の家臣としてのちの島津家の史料にも見え、義弘に比べて身分が低かったために広瀬氏の養女となったようにみえる
が、この広瀬氏というのも島津家の史料に余り名前の見えない一族ではある。
>541 そう言う事になるのか…。解説、ありがとうございます。
>この広瀬氏というのも島津家の史料に余り名前の見えない一族ではある。
園田にしろ広瀬にしろどちらも聞きなれない(小説やゲームでも見ない)姓ですね。
普通に考えたら、自家内に求めるとすれば重臣レベル(本田家や伊集院家)から
迎えそうですよね。、しかし、それによって姻族が強くなるのを嫌ったと言うのもわか
る気もします。
補足
広瀬氏は義弘の2回目の妻。
最初の妻は島津一族の一人・北郷忠孝の娘(島津忠親の姪)で、これは忠親の養子になる代わりの政略結婚だったらしい。
北郷忠孝の戦死+島津忠親の飫肥城放棄でこの養子縁組は解消され、その結果離婚となったようです。
忠孝娘との間には「御屋地」という娘が一人。彼女は成長してから義弘の元に引き取られましたが、
御屋地と他の兄弟との中はかなり微妙な物だったようです。
あと、島津家久(義弘の末弟)は重臣・樺山善久の娘と結婚してますね。
>>543 541さん、度々ありがとうございます。男子に限らず↑レスにある御屋地のような女子の嫁ぎ先も
似たようなものなのでしょうね。
実際、天正年間まで自分の領国統一に勢力を傾けていたと考えれば、遠国の大名との関係より
自分のお膝元の方を優先にもなりますし、当然の選択なのでしょう。
どうもです
ちなみにネタにあげた御屋地の嫁ぎ先ですが
1)”次郎相久”(苗字不明)「事情があり離縁」と系図に説明有り。
2)島津朝久(島津豊州家)
の2人です。島津朝久は「御屋地の母の伯父(島津忠親)の息子」で有り、御屋地から見ると近しい親戚になります。
彼は文禄5年に朝鮮出兵で客死し、御屋地は3人の子供を抱えて未亡人となっています。
>実際、天正年間まで自分の領国統一に勢力を傾けていたと考えれば、遠国の大名との関係より
>自分のお膝元の方を優先にもなりますし、当然の選択なのでしょう。
御屋地の結婚相手はそういう事情がかいま見えますね。最初の一人目がどういう素性の人か分からないのでなんですが。
>>545
そうだったんですね。‘相久’の名前で調べる限り、相手として妥当なのは北郷相久(時久嫡子忠虎兄、
後に廃嫡、父に攻められ天正7年自刃・28歳)のでしょうか。年齢的にもあいそうな気がします。
>>546 いいヒントありがとうございます!
実は御屋地の最初の夫について個人的な興味から気になってまして
しかし、戦国大名の婚姻関係で一番詳しいと思われる『戦国大名閨閥事典』(新人物往来社)でもこのことについては余り言及されておらず
『島津義弘のすべて』(新人物往来社)でもこの点を深くつっこんでなかったのです。
本日図書館で北郷氏の系図を確認すると、北郷相久の字は「次郎」であることが確認できました。
御屋地の最初の夫が北郷相久である可能性は非常に高いのではないかと思います。
そうであると推測すると、非常に複雑な結婚ですね。
本田薫親女
|――――北郷相久
|―島津忠親−北郷時久 |
| | |
|―北郷忠孝−北郷忠孝女 |
|――――島津御屋地
島津義弘 系図ずれてたらスイマソン
御屋地は義理の兄と結婚したことになりますね。
おまけ 系図を確認した限りでは相久と御屋地の間に子供はいなかったようです。