×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

島津朝久女(松平定行前室、本名・千鶴)

生年未詳〜元和4(1618)年11月8日<享年不明>

<略歴>
豊州家・島津朝久の次女で、母は島津御屋地。幼くして父が亡くなり、後、叔父・島津忠恒(家久)の養女となって松平定行と結婚。松平定行は徳川家康の甥に当たり、後世の文書で明示されている(「島津家文書」1409、「旧記雑録」後編4−1890)ように政略結婚であった。この時に徳川家康の筆頭側室であった阿茶局らが仲立ちを勤めたという(「寛政重修諸家譜」)。
定行との間には男子1人女子1人(?)に恵まれたが、朝久女は非常に嫉妬深く、定行が奥に渡るときには周囲の女中すら追い払うくらいで、それを母・御屋地に叱責されている。最も母・御屋地も非常に気の強い性格であったからその性格を引き継いでしまったのだろう。
元和4年に母や夫に先立って没した。ちなみに定行の後妻も島津家久(忠恒)養女の伊集院千鶴である。


<年譜>
年度
(日本歴)
年度
(西暦)
年齢 出来事 出典
(年度不明) 誕生。父・島津朝久、母・島津御屋地(島津義弘長女) 「旧記雑録」諸氏系譜2北郷氏「忠孝」
文禄5
9月12日
1596 父・朝久が朝鮮で客死する 「征韓録」その他頻出
慶長6
後11月4日
1601 黒田松寿丸との縁談が保留となる 「黒田家文書」1 164
慶長12
11月8日以前
1607 寺沢広高との縁談が破談となる 「本藩人物志」伊勢貞成
慶長10
3月19日
1605 島津忠恒の命により人質として江戸に東上する 「旧記雑録」後編4−23
慶長10
8月7日
鎌田政近と共に大坂に到着 「旧記雑録」後編4−91
慶長10
8月9日
伏見に到着
幕命により翌春に祝言を挙げるよう命じられる
「旧記雑録」後編4−91
慶長10
(日時未詳)
島津忠恒の命により、掛川藩主・松平定勝の息子・松平定行(当時19歳)と結婚 「寛政重修諸家譜」松平(元久松)定行
慶長12 1607 長男・千松(後の松平定頼)を出産 「寛政重修諸家譜」松平(元久松)定行
(年度不明) 次女(後の酒井忠朝妻)を出産(?) 「寛政重修諸家譜」松平(元久松)定行
慶長17 1612 母・御屋地より叱責の手紙をもらう
宛先からこの頃「掛川城三の丸」に住んでいたことが分かる
「薩藩先公貴翰」241
慶長19
3月17日
1614 祖父・島津義弘に書状と白黒の小袖2枚を送る 「町田氏正装系譜」久幸 343「御日記抄」
(年度不明、慶長20〜元和3)
8月12日
祖父・島津義弘から、江戸の島津御下へ手紙を送った事へのお礼と、夫・松平定行と伯父・島津家久の関係が良好である事へのお礼等に関する手紙をもらう 「旧記雑録」拾遺1−301
元和3 1617 義父・松平定勝の転封により桑名に転居 「寛政重修諸家譜」松平(元久松)定行
元和4
11月8日
1618 桑名(現三重県桑名市)にて死去 法号「長寿院」 「旧記雑録」後編4−1556〜1559

<墓所>
長寿院(三重県桑名市北寺町)

この黒田松寿丸とは黒田長政の従兄弟で、この当時男子のいない長政の養子となっていた。なお、縁談の相手は姉の可能性もある。

「本藩人物志」伊勢貞成では相手を寺沢広高としているが、広高には当時既に正室(妻木貞徳女)がいるため疑わしい。広高の息子・忠晴(1600〜1622)が正しいか。

この次女は「松山叢談」によると
「御二女は酒井備後守源忠朝公〈本藩譜云、房州加知山城主〉の御室〈御名不詳。御実母は長寿院殿。寛文三(=1663)癸卯年正月三日御逝去、御年四十二。龍光院殿と諡し谷中瑞輪寺へ御葬埋。本藩譜云、御実母は村尾氏の女。〉 」
とある。没年から逆算すると元和8(1622)年生まれとなり、朝久女の子とするには疑問が残る。「松山叢談」に参考として挙げられた「本藩譜」の説が正しいか。

ちなみに定行の長女(生没年未詳)は夭折したため(「松山叢談」)、この次女は実質的に長女の扱いであった。

表紙に戻る 人名索引へ戻る 人名索引「し」に戻る