園田清左衛門女(広瀬氏女、島津義弘後室、宰相殿)

?〜慶長12(1607)年2月1日<享年不明>

<略歴>
島津義弘の後妻で、”宰相殿”と呼称されていた(「御家譜」「薩藩先公貴翰」所収の島津義弘の手紙などによる)。
「島津氏正統系図」では”広瀬氏娘”とされているが、「旧記雑録」諸氏系図、「御家譜」などによると実は園田清左衛門なる武士の娘で、後に広瀬村(現薩摩郡宮之城町)の侍・広瀬助宗の養女となったとある。「園田清左衛門」は島津忠良配下の武将として「島津世家」などに、また島津家久(忠恒)ごろの武士として「薩藩旧記雑録」所収の文書(後編4−1423)などに名前が見えるが、二人とも義弘妻の父親としては年代が合わないようである。
また、広瀬家の養女となった事情は不明。園田家が島津家とは格の合わない下級の武士であったため広瀬氏養女となった可能性もあるが、広瀬氏も助宗以前の素性がはっきりしない下級武士である。それでも義弘の正妻となった彼女は義弘執心の女性であったことを窺わせる。
義弘との間には男子5人、女子1人を産んだが、天命を全うしたのは後に藩主となった家久(忠恒)と島津御下の2名だけであった。彼女自身も忠恒と伊集院忠真(島津御下前夫)の対立した庄内の乱の頃から病気がちとなり、義弘に先立って亡くなった。
木崎原の戦いでは義弘の代理として50人余りの兵で加久藤城に籠城し、上方に人質に出されていた折りには義兄の島津義久から都度都度書状を送られるなど、頼りにされるしっかり者の女性であったらしい。


<年譜>
年度
(日本歴)
年度
(西暦)
年齢 出来事 出典
(年度不明) 誕生。父・園田清左衛門、母・不明(広瀬氏女あかし?) 「旧記雑録」諸氏系図3「忠清」
(年度不明) 島津忠平(後の義弘)と結婚する 「島津氏正統系図」義弘
永禄12 1569 長男・鶴寿丸を加久藤城で出産 「島津氏正統系図」鶴寿丸
「御家譜」十八代家久
元亀3
5月4日
1572 木崎原の戦い
伊東勢に対して50人で加久藤城に籠城し、撃退する。
「日州木崎原御合戦伝記」「島津世家」 その他頻出
この時事前に使えていた侍女を、さも追いだしたように見せかけて伊東軍の間者とすることに成功、間違った情報を信じさせて加久藤城から撃退させたという 「日州木崎原御合戦伝記」
天正元 1573 次男・久保を加久藤城で出産 「島津氏正統系図」久保
「御家譜」十八代家久
天正4丙子
11月7日
1576 三男・米菊丸(後の島津忠恒→家久)を加久藤城で出産 「島津氏正統系図」家久
「御家譜」十八代家久
天正4丙子
11月22日
1576 長男・鶴寿丸が加久藤城で夭折(享年8歳) 「島津氏正統系図」鶴寿丸
「御家譜」十八代家久
天正8庚辰 1580 四男・萬千代丸(後・喜入久道養子)を出産 「島津氏正統系図」萬千代丸
「御家譜」十八代家久
天正10 1582 五男・長満丸(後の島津忠清)を出産 「島津氏正統系図」忠清
「御家譜」十八代家久
「本藩人物志」島津久四郎忠清
天正12甲申
7月6日
1584 義弘の次女・御下を出産 「島津氏正統系図」義弘女
「御家譜」十八代家久
天正13 1585 次男・久保、三男・忠恒(後の家久)が元服。
久保の元服は伯父・義久の加冠、叔父・家久の理髪という盛大な物であった
「御家譜」十八代家久
天正16戊子
2月23日
1588 四男・萬千代丸が和泉堺(現鹿児島県出水市?大阪府堺市?)で夭折(享年8歳) 「島津氏正統系図」萬千代丸
「御家譜」十八代家久
人質に向かう旅の途上であった 「旧記雑録」諸氏系図3「忠清」
文禄元頃 1592 夫・義弘の朝鮮出兵に伴い、豊臣秀吉の命令で京に人質として上洛するよう命じられる 「島津氏正統系図」義弘
文禄元
5月4日
壱岐滞在中の義弘から手紙をもらう 「旧記雑録」後編2−882
「旧記雑録」拾遺2−298
「薩藩先公貴翰」156
文禄2
3月8日
1593 上洛のことが伊勢弥八郎から島津義久に報告される 「旧記雑録」後編2−1079
文禄2
6月22日
朝鮮在陣中の義弘から、手紙が滞りがちなこと、忠清が京に人質に出されること等に関する手紙をもらう 「旧記雑録」後編2−1145
「薩藩先公貴翰」162
文禄2?
8月1日
上洛(人質)のことが問題となるが、五男・忠清が上洛するため、延期となる 「旧記雑録」後編2−1167
文禄2
8月2日
朝鮮在陣中の義弘から、園田清左衛門女が京に無事到着したことを祝い、忠恒の渡海を心配する手紙をもらう 「旧記雑録」後編2−1168
「薩藩先公貴翰」163
文禄2癸巳
9月8日
次男・久保が朝鮮巨済島で病死(享年21歳) 「島津氏正統系図」久保「征韓録」その他頻出
文禄3?
8月7日
1594 朝鮮在陣中の義弘から、園田清左衛門女と忠清が人質に取られていることと、島津家に対する豊臣政権の扱いに対して愚痴とも取れる手紙をもらう 「旧記雑録」後編2−1364
「薩藩先公貴翰」165
文禄3
11月?
次男・忠恒から朝鮮に無事到着した事、夫・義弘の無事を知らせる手紙をもらう 「旧記雑録」後編2−1415
文禄4?
4月頃?
1595 この頃京都で無事で過ごす 「旧記雑録」後編2−1498
文禄4?
6月5日
夫・義弘より次男・忠恒の無事と、義弘が5月10日に朝鮮を出国したことを知らせる手紙をもらう 「旧記雑録」後編2−1532
文禄4乙未
7月4日
五男・忠清病死(享年16歳) 「旧記雑録」後編2−1553
「島津氏正統系図」忠清
忠清の没年は15歳説もあり 「本藩人物志」島津久四郎忠清
文禄4
12月24日
次男・忠恒が朝鮮から書状を送る 「旧記雑録」後編2−1643
文禄5?
5月1日
1596 朝鮮在陣中の義弘から、御屋地の屋敷の修理と忠恒の帰国に関する手紙をもらう 「薩藩先公貴翰」178
文禄5
閏7月28日
朝鮮在陣中の義弘から、自身の健康への不安を吐露した手紙をもらう 「薩藩先公貴翰」179
慶長3
1月
1598 朝鮮在陣中の義弘から蔚山城の戦いに関する手紙をもらう 「薩藩先公貴翰」183
慶長3?
5月5日
朝鮮在陣中の義弘から御下を帰国させる件などについての手紙をもらう 「薩藩先公貴翰」208
慶長3
5月5日
加徳島滞在中の義弘から手紙をもらう
このころ伏見に転居
「薩藩先公貴翰」187
慶長4
3月
1599 庄内の乱勃発
心労から病床に伏すようになる。
「庄内陣記」その他頻出
慶長4
6月10日
病のため、食事もできない重体に陥る 「旧記雑録」後編3−896
慶長4
8月10日
夫・義弘経由で義兄・義久から島津亀寿のことを懇ろに頼まれる 「旧記雑録」後編3−849
慶長4
9月25日頃
病が小康状態となる
忠恒からの手紙に満足する
「旧記雑録」後編3−896
慶長4
10月6日
この頃病回復せず、義兄・義久から見舞いの手紙が届く 「旧記雑録」後編3−924
「薩藩先公貴翰」58
慶長4
10月25日
この頃まだ病のために床に伏せる 「薩藩先公貴翰」205
「庄内陣記」
慶長4
12月4日
この頃、病が完治せず 「旧記雑録」後編3−966
慶長5
5月5日
1600 領地の摂津国萱野(現箕面市萱野)で静養する 「旧記雑録」後編3−1104
慶長5
9月15日
関ヶ原の合戦
この前後、石田三成によって大坂城内で人質となる
「惟新公関原御合戦記」
慶長5
9月19日
「夫・義弘が戦死し、帰国して菩提を弔いたい」と豊臣氏に申し出、帰国の許可が下りる 「惟新公関原御合戦記」
慶長5
9月22日
島津亀寿、秋月種実室と共に大坂を脱出し、西宮で敗走中の夫・義弘と西宮(現・兵庫県西宮市)で落ち合い薩摩へ帰国。
この時、豊臣秀吉から拝領した「平野肩衝」を持参する
「惟新公関原御合戦記」
慶長5
9月26日
安芸日向泊(現・広島県)に到着
立花宗茂の艦隊と同宿する
「惟新公関原御合戦記」
慶長5
9月27日
豊後沖合にて黒田孝高に西軍の艦隊と間違われ攻撃される 「惟新公関原御合戦記」
慶長5
9月29日
日向国細島着 「惟新公関原御合戦記」
慶長5
9月30日
財部にて秋月種実室を秋月家に引き渡す 「惟新公関原御合戦記」
慶長5
10月1日
佐土原→八代と移動 「惟新公関原御合戦記」
慶長5
10月2日
八代→大隅国曽於郡大窪村と移動 「惟新公関原御合戦記」
慶長5
10月3日
大窪村を出発、島津義久の居城である冨隈城(現・鹿児島県隼人町)着 「惟新公関原御合戦記」
慶長5
10月4日?
夫・義弘と共に居城である帖佐に戻る 「惟新公関原御合戦記」
慶長12
2月1日
1607 加治木にて死去。法号「実窓芳眞大姉」
薩摩国伊集院の妙円寺(現・徳重神社)に葬られる。
「旧記雑録」後編4−320、322
「御家譜」十八代家久
慶長13
2月1日
1608 不断光院(現鹿児島市長田町、現在廃絶)にて一周忌の法要がおこなわれる 「旧記雑録」後編4−422

<墓所>
・妙円寺(現・徳重神社、鹿児島県伊集院町)
・福昌寺跡(鹿児島県鹿児島市)

「諸家大概」(『鹿児島県史料集』6)の「広瀬氏」の項目によると、
 「島津義弘室宰相殿の母親は園田清左衛門の下女”あかし”であり、”あかし”は広瀬氏女であった」とする。
「諸家大概」では広瀬氏の出自は薩摩国佐志広瀬村の出身で先祖不明、園田氏は小野辺の出身で先祖不明とする。

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