島津御平(島津義虎室)
天文20(1551)年8月22日〜慶長8(1603)年11月12日<享年53歳>
<略歴>
島津義久長女。母は島津忠良四女。初名は不明だが、長じて「御平」と名乗るようになった。晩年に住んだ上井の平(現鹿児島県霧島市国分上井)からそういわれるようになったという説もある(「本藩人物志」島津義虎)。
その当時島津家分家中最も勢力のあった薩州家の当主・義虎の妻となり、男子6人(?)を儲ける。薩州家は当初島津総本家の家督をめぐって御平実家の伊作家と争っていたが、義虎は義久の腹心としての功績は高く、そこから御平の尽力もあったことが窺い知れる。
しかし義虎死後当主となった忠辰は、島津家が豊臣秀吉に屈したこともあってか次第に独立志向を強め、文禄元年には島津家家臣として出兵を求めた秀吉の命令に反してサボタージュを行った。これによって秀吉の勘気をくらい改易となり、国元に残っていた忠辰の弟たちは小西行長によって連行、忠辰の妻子は死刑となり、御平のみが一命を取り留め薩摩に帰還した。島津家当主・島津義久の娘であった故であると考えられる。
その後は父・義久によって大隅国上井に堪忍料をもらい細々と暮らしたが、慶長8年に死去。その時立ち会えた子供は三男の島津重富(後の頴娃久秀→入来院重豊)ただ1人だけであった。
ちなみに、彼女の孫娘・島津忠清女が後に島津家久の側室となって光久を産んだため、現在に至るまで島津本宗家の血統には島津義久の血が伝えられている、という史実は余り知られていない。
年度 (日本歴) |
年度 (西暦) |
年齢 | 出来事 | 出典 |
天文20辛亥 8月22日 |
1551 | 1 | 誕生。父・島津義久、母・島津忠良四女 ※ | 「島津家正統系図」 「御家譜」 「旧記雑録」前編2−2658 |
(年度不明) | 島津義虎(薩州家島津実久長男)と結婚 義虎の母と御平の祖母は島津重久の娘で姉妹同士 |
「島津家正統系図」その他頻出 | ||
天文22 | 1553 | 3 | 長男・島津忠辰出産(?)※ | 「諸氏系図」薩州用久 忠辰 |
永禄9 | 1566 | 16 | 「本藩人物志」国賊伝島津忠辰 | |
永禄12 | 1569 | 19 | 次男・島津忠隣出産 | 「諸氏系譜」歳久 忠隣 「本藩人物志」島津忠隣 |
元亀2 | 1571 | 21 | 三男・又助(島津忠清)を出水で出産 | 「諸氏系譜」薩州用久 忠清 「本藩人物志」島津忠清 |
天正2 | 1574 | 24 | 四男・島津忠栄出産 | 「諸氏系譜」薩州用久 忠栄 |
天正3 | 1575 | 25 | 「本藩人物志」島津忠栄 | |
天正7 8月20日 |
1579 | 29 | 五男・島津忠富(後の入来院重高)出産 | 「本藩人物志」島津忠清 |
天正9 | 1581 | 31 | 六男・島津忠豊出産 | 「本藩人物志」島津忠清 |
天正11 1月12日 |
1583 | 33 | 上井覚兼が“当春の御祝言”をいうために対面しようとしたが鹿児島ヘの急用が出来たため果たせず | 「旧記雑録」後編1−1367 |
天正13乙酉 7月25日 |
1585 | 35 | 夫・島津義虎死去(享年42) | 「諸氏系図」薩州用久 義虎 「本藩人物志」島津義虎 |
天正15 | 1587 | 37 | 島津家が豊臣秀吉に負けたことに伴い、四男・忠栄を忠辰の人質として細川幽斎に差し出す | 「本藩人物志」島津忠栄 |
文禄元 12月31日 |
1592 | 41 | 島津忠辰が渡海後一度も島津義弘に助力しないため忠辰を糾問し、その間御平と忠辰の妻子を名護屋に連行するよう豊臣秀吉が命じる | 「旧記雑録」後編2−1015「雑抄」 「薩藩旧士文章」47 |
文禄2 5月1日 |
1593 | 42 | 豊臣秀吉が島津忠辰の改易を決定 薩州家断絶する |
「本藩人物志」国賊伝島津忠辰 |
文禄2 8月27日 |
島津忠辰、朝鮮加徳島・小西行長陣所でで死去(殺害されたという説有り)(享年28歳?) | 「本藩人物志」国賊伝島津忠辰 | ||
文禄2夏 | 三男・忠清、五男・忠富、六男・忠豊が小西行長に連行され、宇土に連れ去られる この頃御平、薩摩に送還か? |
「本藩人物志」入来院重高 「本藩人物志」島津忠清 |
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文禄2頃 | この年、四男・忠栄が小倉(現福岡県北九州市)の細川幽斎の元から脱走し、佐土原の島津豊久の元へ逃げる | 「本藩人物志」島津忠栄 | ||
慶長元 | 1596 | 45 | 父・義久から近衛信尹に着せるために赤い小袖を借りたい旨所望される※ | 「旧記雑録」拾遺1−88 |
慶長2 5月12日 |
1597 | 46 | 五男・忠富が宇土を脱走し、朝鮮在陣中の島津義弘の元へ向かう | 「本藩人物志」入来院重高 |
小西行長旗下として朝鮮に渡っていたが、行長の陣から義弘の陣へ脱出したともいう | 「諸氏系譜」薩州用久 忠富 | |||
慶長5 | 1600 | 50 | 四男・忠栄が島津家久長女と共謀して佐土原を占拠しようとし、逆に豊久家臣から一揆を起こされ、父・島津義久のいる富隈(現鹿児島県姶良郡隼人町)へ逃げる | 「本藩人物志」島津忠栄 |
五男・忠富が関ヶ原の戦いの功績により頴娃家を継いで「頴娃久秀」と名乗る※ | 「本藩人物志」入来院重高、頴娃久秀 | |||
慶長8癸卯 11月12日 |
1603 | 53 | 上井(現鹿児島県国分市上井)で死去 法号「蓮昌妙守庵主」 |
「島津家正統系図」 「本藩人物志」入来院重高 |
<墓所>
・淵龍院跡(現 鹿児島県霧島市国分)
※「本藩人物志」入来院重高の項には「(重高の)生母ハ義久公長女御平様ト云母ハ入来院湯中之女子也」とあり、「島津氏正統系譜」などの記述と矛盾する。
後述する島津忠辰の母と言い、「本藩人物志」の島津御平及び薩州家の関係記事は「島津家正統系譜」や「御家譜」「諸氏系譜」などと異なる点が多い。
※忠辰に関しては母を入来院氏とする説もある(「本藩人物志」島津忠清)
また、忠辰の生年を天文22(1553)年とする説もある(「諸氏系譜」(薩州用久)、「本藩人物志」国賊伝島津忠辰傍注)。この説に則ると御平との年齢差は2歳しかないことになり、忠辰の母を御平とするには不具合がある。
※この書状は宛名書きが「むもし(=娘)」とだけなっており、宛先の判断が難しい。この頃に薩摩在国の義久の娘としては
・文禄2年頃に薩摩に送還された島津御平
・島津彰久室となっていた島津新城
が考えられる。三女の島津亀寿はこの頃は京に人質となっていた。
父・義久のもとで隠遁生活を送っていた御平に、義久が窮状を訴えて着物を借りるというのは考えづらいが、断定する判断材料がないためこちらの年表にも記事を記す。
※「庄内陣記」では既に「頴娃久虎」の名前で島津忠恒側武将に名前を連ねている。頴娃家を嗣いだのは慶長4年に朝鮮から帰国してまもなくであった可能性もある。