島津重久女(島津忠良室、御東)

?〜永禄6(1566)年11月9日

<略歴>
薩州家当主・島津重久(後・成久)の娘で島津忠良の正妻となり、貴久、忠将、御南(肝付兼続室)御隅(樺山善久室),種子島時尭・肝付兼盛室を産んだ。忠良が島津本家の家督を巡って実家と対立する際には迷うことなく夫・忠良について甥・実久を非難したという剛毅な女性だったらしい。

「諸氏系図」薩州用久には、島津成久(重久)の三女として「御東」なる女性が登場するが、「樺山玄佐自記」天正5年5月18日条によれば島津貴久の母は”御東”と名乗っていたとあり、同一人物と思われる。ちなみに系図に寄れば、成久の長女は菱刈重副室、次女は佐多氏某室、三女が「御東」、四女は尼(雪慶院)、五女があの島津実久の妻で島津義虎の母(上ノ城様、妙朝)、六女が某越後守妻、七女が尼?(満浄寺)、八女が某常陸守妻である。


<年譜>
年度
(日本歴)
年度
(西暦)
年齢 出来事 出典
(年度不明) 誕生 父・島津重久 母・島津久盈姉 「諸氏系図」3薩州用久「成久」
「新編伴姓肝付氏系譜」14 大永7年条
(年度不明) 伊作家当主・島津忠良の下に嫁ぐ 「島津家正統系図」忠良
永正8 1511 長女・御南(肝付兼続室)と次女・御隅(樺山善久室)出産 「島津家正統系図」忠良
永正11
5月5日
1514 伊作にて島津貴久出産 「島津家正統系図」忠良
永正17 1520 次男・島津忠将出産 「島津家正統系図」忠良
(年度不明) 三女・種子島時尭 後 肝付兼盛室出産 「島津家正統系図」忠良
永禄6年
11月9日
1566 死去。法号「寛庭芳宥大姉」 「御家譜」十五代貴久

<墓所>
常潤院跡(鹿児島県南さつま市)
 当初浄福寺(廃寺、南さつま市(旧加世田市))、梅岳寺(廃寺、日置市(旧伊集院町))、常珠寺(廃寺、南さつま市(旧加世田市田布施))の3カ所に墓所があったが、大正12年に浄福寺の墓を、昭和3年に梅岳寺にあった墓を常潤院に移転・合祀した(「御祭祀提要」)。

薩州家側の史料には全く記載がないが、「新編伴姓肝付氏系譜」14に「島津相模守忠良翁主 母島津薩摩守成久女、始成久娶島津久盈姉生之、故翁主與兼続為姨兄弟云、為孺人字曰於南、於南君之帰我也、(以下略)」とある。ちなみに同史料には肝付兼続の母について「飫肥城主島津豊後守忠朝養女、実其弟島津左馬助久盈之女」とある。

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