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島津忠清女(島津家久(忠恒)側室→後室、西ノ丸、東ノ丸(?)、心応夫人)

慶長5(1600)年庚子〜寛永2(1625)年乙丑7月21日<享年26歳>

<略歴>
島津義虎の三男・島津忠清の娘で後に島津家久の側室となり、光久、北郷忠直、島津忠紀(垂水島津家・島津久敏養子)、島津久章室、肝付兼屋室の5人の子供を産んだ。家久の跡継ぎを産んだことで正室格として扱われたらしく、徳川幕府の命が下ったときも正室・島津亀寿をさしおいて彼女と光久、北郷忠直、島津忠紀が江戸に下った。しかし、その翌年娘(肝付兼屋室)の出産の時に死去。
初代の鹿児島藩主・島津家久の後室とされ、2代目藩主・光久の生母でありながら、その経歴には不審点が多い。まず父・忠清の帰国の時期、母・皆吉続能女が島津氏が忌み嫌っていたキリシタンであったこと、弟が父の跡を継がずに新納本家に養子に出されたこと、光久が家久の実質長男でありながら当初跡目継承が危ぶまれていたことなどである。また、家久正室・亀寿の生存中から正室扱いされているにも関わらず、後世の史料・「島津氏列朝制度」の巻二十三「御代々後安置」条では正室や当主生母として法事を行うべき人物リストに入っていない。ともかく非常に謎の多い女性である。

<年譜>
年度
(日本歴)
年度
(西暦)
年齢 出来事 出典
慶長5 1600 誕生。父・島津忠清、母・皆吉続能女(通称・堅野カタリナ)
皆吉続能は小西行長の家臣であった。
「旧記雑録」諸氏系図3薩州用久「忠清」
小西行長が関ヶ原の合戦で負けたことから、後継領主となった加藤清正の元に親子共に捕らえられる  「旧記雑録」諸氏系図3薩州用久「忠清」
慶長14 1609 10 薩摩国・阿久根に家族共に帰還する。曾祖父・島津義久と父・忠清の従兄弟である島津常久の尽力による物とされる 「旧記雑録」諸氏系図3薩州用久「忠清」
慶長16頃 1611 12 この頃、島津亀寿と国分城で対面する 「旧記雑録」家わけ2肝付氏「桃外院殿年譜雑伝」乾
島津家久の側室の一人となる 「家久公御養子御一件」
慶長17 1612 13 島津家久の長女を出産 「島津氏正統系図」家久
「家久公御養子御一件」
「旧記雑録」後編4−985
元和元
3月15日
1615 16 長女夭折(享年3歳) 「旧記雑録」後編4−985
元和2丙辰
6月2日
1616 17 家久の次男を出産、「虎寿丸」と名付けられる(後の島津光久)
家久の長男(兵庫頭)は慶長19年に夭折していたため、実質長男の扱いであった
「島津氏正統系図」家久
元和3
2月22日
1617 18 母・皆吉続能女の元に滞在していた宣教師に光久のために祈祷するよう命じ、寄付をする イエズス会日本通信 マテウス・デ・コロレス長崎発(JAP-SIN 58 437−38)
元和4 1618 19 家久の四男(島津久敏→北郷忠亮養子、後の北郷久直)を出産 「島津氏正統系図」家久
元和4戊午
3月2日
四男の幼名を島津義弘に「岩松丸」と名付けてもらう
この頃「西ノ丸殿」と言われていた模様
「旧記雑録」後編4−1496
元和6
1月5日
1620 21 父・島津忠清が死去(享年50)、興国寺(現鹿児島県冷水町、現在廃絶)に葬られる。 「旧記雑録」諸氏系図3薩州用久「忠清」
元和6庚申
6月18日
家久の七女(千亀、後の島津久章<島津新城孫>室)を出産 「島津氏正統系図」家久
元和7
11月頃
1621 22 虎寿丸が6歳になったのを記念して、家久が犬追物を興行する 「旧記雑録」後編5−1755〜1756
元和8壬戌
2月19日
1622 23 家久の七男・島津忠紀(後に島津久敏<島津新城孫>養子)を出産 「島津氏正統系図」家久
「旧記雑録」諸氏系図3忠将「忠記」
元和8
7月
島津亀寿が虎寿丸を養子とし、財産の全てを虎寿丸に相続することを決定する 「旧記雑録」後編4−1780〜1781
元和9
5月25日
1623 24 上洛中の家久宛てに手紙を送る 「旧記雑録」後編4−1796
元和9
6月13日
上洛中の家久より鼓の稽古などに関して手紙をもらう 「旧記雑録」後編4−1796
元和9
6月○2日
上洛中の家久より宮中での出来事や、女中の扱いなどについて手紙をもらう 「旧記雑録」後編4−1798
寛永元
9月8日
1624 25 家久七女・千亀(5歳)を島津家久の直命で島津久章婚約者として島津新城の養女にする 「末川家文書 家譜」久章
寛永元
11月13日
幕府の命により人質となるため、息子・光久、北郷久直、島津忠紀と共に江戸に向かう 「島津氏正統系図」光久
「島津世家」その他頻出
このころ「東ノ丸殿」と呼ばれていた? 「旧記雑録」後編4−1861〜1862
「薩藩先公貴翰」301
寛永元
12月10日
出水(現・鹿児島県出水市)の瀬の浦を出航 「旧記雑録」後編4−1864
寛永2
2月2日
1625 26 大坂に着く 「旧記雑録」後編4−1864
寛永2
4月12日
江戸に着く 「旧記雑録」後編4−1864
寛永2乙丑
7月21日
江戸で家久の九女(米寿姫・後の肝付兼屋室)出産、それが原因となって死去
法号「心応慶安大姉」、位牌は恵燈院(現鹿児島県池之上町、福昌寺塔頭、現在廃絶)に安置された
「旧記雑録」後編4−1886〜1888
「旧記雑録」諸氏系図3薩州用久「忠清」

「イエズス会日本通信」はいくつかの邦訳が出ているが、この部分に関してはまだ史料集としては邦訳されていないようである。この邦訳は『鹿児島のキリシタン』で結城了悟氏が紹介した物を参照した。

名前については「新城島津家文書」45〜47(『鹿児島県史料』家分け10所収)を参照した。また同文書48〜49によると家久九女は「萬鶴」と名乗っていたとされる。

「旧記雑録」後編4−1861〜1862には「今度江戸江東ノ丸幼少之子共同道を以凌遠路之波濤令難行苦行、加之幼稚之両子残置(以下略)」とでてくる。時期から考えてこの「東ノ丸」は島津忠清女と考えられるが、「本藩人物志」喜入忠続の記事に依れば鎌田政重女(別名「東ノ丸」)もこの時期に江戸に行った可能性がある。
また「幼稚之両子残置」からは2人の子供を鹿児島に置いて江戸にいったことになるが、島津忠清女の場合は鹿児島に置いていったのは女子(後の新城家・島津久章室)1人のみと思われ、矛盾する点がある。

なお、「末川家文書 家譜」では島津久章(島津新城の孫)室となった姫を「東之丸御姫千亀殿」と記述している。

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