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島津家久女(島津久信室 後 相良頼安室)

天正11(1583)年〜寛永6(1629)?9月22日<享年47歳>

<略歴>
島津家久(中務大輔、島津貴久四男)の三女。島津以久の孫で一時期島津本家相続候補であったと思われる島津久信の夫人であった。ところが「旧記雑録」所収系図には「相良頼安室」と書かれ、島津久信夫人であったことは書かれていない。但し「島津家正統系図」では久信と離婚後に相良頼安と再婚した、とは書かれている。久信が島津本家の家督相続を巡る騒動に巻き込まれたことと考え合わすと、彼女も何らかのトラブルに巻き込まれて久信とは離縁した可能性があるが、史料ではその辺りを示す物はない。
彼女に関しては島津家側の史料よりも再婚先の相良家の方の史料が詳しい。慶長13年、26歳の時に相良頼安と再婚するが、これは相良家当主・相良頼房の希望であったと言い、また一方で島津家当主・島津家久(忠恒)の要望であったとも言う(「南藤蔓綿録」)。隣国同志の結束を結ぶための政略結婚であるのは明白であった。その後、一子・頼章を生むも寛永6年に死去。”ご乱心”による死と言う説もある。
島津家側史料では家久の三人の娘の中で唯一生没年未詳であり、相良家側史料から見る死亡原因から考えても、薄幸の女性であったのではと推測される。


<年譜>
年度
(日本歴)
年度
(西暦)
年齢 出来事 出典
天正11 1583 誕生。父・島津家久、母・樺山善久女 「諸氏系譜」3家久「家久」
「南藤蔓綿録」巻之九 慶長13年10月4日条
慶長5 冬 1600 17 島津久信(島津彰久・島津新城夫妻長男)に嫁ぐ
居城・佐土原城が伊東家家臣・稲津茂政に攻撃されている最中の婚姻であった
「諸氏系譜」3忠将「久信」
「垂水島津家家譜」久信
慶長7壬寅
6月23日
1602 19 久信の長男・島津久敏を鹿屋で出産 「諸氏系譜」3忠将「久信」
「垂水島津家家譜」久敏
(年度不明) 島津久信と離縁 「島津家正統系図」
慶長13
10月4日
1608 26 球磨の武士である相良頼安(18歳)と再婚 「諸氏系譜」3家久「家久」
「島津家正統系図」
相良頼安は藩主・相良頼房の弟分として結婚したという 「南藤蔓綿録」巻之九 慶長13年10月4日条
島津義弘の養女として結婚したという 「本藩人物志」相良頼章
慶長14 1609 27 相良頼安の長男・頼章出産 「南藤蔓綿録」巻之九 慶長13年10月4日条ほか頻出
「本藩人物志」相良頼章
慶長17
3月9日
1612 30 従兄弟に当たる島津家久が球磨を訪問
夫・頼安や舅・頼兄と共に歓待する
「南藤蔓綿録」巻之十 慶長17年3月9日条
元和3 1617 35 息子・相良頼章が加治木に移り住み、島津義弘によって元服する 「本藩人物志」相良頼章
寛永元甲子
10月13日
1624 42 息子・島津久敏が江戸で客死(享年23歳) 「諸氏系譜」3忠将「久信」
寛永元
11月17日
西小市を使わし、香典銀3000疋を献ずる 「垂水島津家家譜」久敏
寛永5
9月21日
1628 46 求麻にて死去 法号「船月窓鉄大姉」 「垂水島津家家譜」久信
寛永5
11月13日
息子・頼章と相良長毎の次女・於萬(24歳)が結婚 「南藤蔓綿録」巻之九 寛永5年11月13日条
寛永6
9月22日
1629 47 病死 法号「船月宗鉄」
越江山柳江院に葬られる
「南藤蔓綿録」巻之十 寛永6年9月22日条
法号別伝「船月宗護」 「南藤蔓綿録」巻之十二 頼兄嫡子内蔵助頼安病死条
ご乱心により死んだという説もあり 「南藤蔓綿録」巻之九 慶長13年10月4日条
寛永7
4月8日
1630 息子・頼章と相良於萬の間に長女・万徳誕生 「南藤蔓綿録」巻之十 寛永7年4月8日条
寛永13
5月4日
1636 息子・頼章の嫁の相良於萬死去(享年32歳) 「南藤蔓綿録」巻之十 寛永13年5月4日条
寛永14
5月11日
1637 前夫・島津久信変死(享年53歳) 「旧記雑録」諸氏系図3忠将「久信」
寛永17
4月28日
1640 夫・相良頼安江戸で急病死(享年51歳) 「旧記雑録」後編6−130
「南藤蔓綿録」巻之十二 寛永17年4月28日条
「本藩人物志」相良頼章
寛永20
3月
1643 息子・相良頼章が妻子と弟・相良右近を連れて鹿児島に移住 「本藩人物志」相良頼章
頼章、「相良内蔵丞頼久」と改名する 「南藤蔓綿録」巻之十二 喜平次頼章薩州退越之事条
寛文4
6月14日
1664 息子・相良頼章、鹿児島にて死去(享年56歳)南林寺に葬られる 「南藤蔓綿録」巻之十二 喜平次頼章薩州退越之事条

「島津氏正統系図」「諸氏系譜」など島津側の史料には何故か彼女の生没年が一切書かれていない。この生年は相良氏の史料「南藤蔓綿録」の記録から逆算した。

「諸氏系譜」では婚姻年は記録が無く未詳である。

「南藤蔓綿録」ではこの島津久敏(又四郎)を後夫・相良頼安との間の長男とし、3歳で病死(法号「節心良忠童子」)、墓は球磨の南陽軒にある、とする。しかし、彼の苗字が島津であるところから考えてもこの説は奇異である。

相良頼安は、実は隣国球磨藩の藩主・相良家の家老を代々勤めた犬童(いんどう)家の出身。
 祖父は犬童頼安(1521〜1606)、父は犬童(後に相良に復姓)頼兄(1568〜1655)。
 略系図は「相良長頼−頼員=長綱…(7代略)…重安−頼安−頼兄−頼安−頼章」
 犬童(相良)頼兄は寛永17年(1640年)に藩主・相良頼寛との確執により津軽藩(現・青森県弘前市)にお預けの処分となった。
 頼兄の孫・相良頼章は元和3年(1617年)に”祖母が島津家久女である”ということで加治木の島津義弘に仕えるようになったとされる(『「さつま」の姓氏』相良氏)が、上記の事件との時系列と合わないように思われる。頼兄の父と息子が同名”頼安”のため混同したと考える。

 犬童(相良)頼兄についてはこのHPを参照いたしました。ありがとうございました。→球磨の部屋

相良家側の史料では寛永6年没、垂水島津家側史料では寛永5年没とする。

相良右近は島津家久女の死後に相良頼安が向かえた後妻との間に産まれた子で、頼章と右近は異母兄弟となる。この後妻は京・北野(現・京都市北区北野)の女性で、相良(犬童)頼兄が失脚したときに勃発した「御下の乱」で自害している。
またこの時に頼章が連れた妻は相良長毎の娘ではなく後妻で、これまた京で再婚した女性という(「南藤蔓綿録」)。「本藩人物志」では子供も同行したとあるが、「南藤蔓綿録」によると相良頼章には相良家家臣に嫁した娘二人しかいないため、同行は不可能と思われる。ちなみに頼章と後妻の間に子供はなく、後に家久女の甥である鹿児島藩士・東郷重頼の息子(忠清)を養子として迎えている(「諸氏系譜」家久 忠清、「南藤蔓綿録」)。


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