島津御下(伊集院忠真室 後 島津久元後室、幼名千鶴)

天正12(1584)年7月6日〜慶安2(1649)年8月17日<享年66歳>

<略歴>
島津義弘と正室・園田清左衛門女(宰相殿)の間に生まれた次女。幼名は「千鶴(せんつる)」(「旧記雑録」後編、「佐志島津家系図」、「町田氏正統系譜」久幸など)。成長して「御下(おした)」と名乗るが、語源不明。兄・忠恒の正室である島津亀寿が「御上」と名乗ったことと対になった物か。
当初、島津家筆頭家老・伊集院忠棟の長男である忠真に嫁ぎ一女に恵まれたが、兄・島津忠恒(家久)が伊集院忠棟を殺したことに激高した夫・忠真が島津家に対して反乱を起こし(庄内の乱)、結果、伊集院家は8万石から1万石に減封され、慶長7年には兄・島津忠恒が上洛するときに忠真を暗殺してしまった。この時の御下の動向は不明だが、忠真は乱後帖佐に幽閉されていたため、彼女も帖佐にいた物と思われる。
その後、また動向が不分明になるが、慶長16年に徳川幕府より家久(忠恒)名代として江戸で人質になるように命じられて、忠真との遺児と共に上京する。元和5年、父・島津義弘の死去によりようやく人質の任を解かれて鹿児島に帰還。その途中で家久の命により娘を松平定行の後妻とする。
帰国後、家久の命で家老・島津久元の後妻となるが、久元にはすでに妻がいたのを無理矢理離婚させるという無茶苦茶な結婚であった。久元との間には一子・久近に恵まれるが先立たれる。その際に久元先妻の祟りではないかという噂が立ったほどである。
江戸への人質の功績に対して3000石の化粧料をもらい、兄・家久の相談にあずかるなど藩内での権勢は絶大な物があったようだが、娘は終生江戸住み、息子は夭折、家族運に恵まれない寂しい生涯であった。
義弘50歳の時の子供だったために、義弘は彼女を溺愛したようで、江戸に人質に出された際に義弘が彼女に送った膨大な書状が残る。兄・家久もこのような経緯から御下には大変気を使っていたようで、都度都度書状を送っている(「旧記雑録」拾遺1−728〜734、799)
ちなみに、「本藩人物志」「伴姓頴娃氏系図」の頴娃久音の項によると「慶長2年辛酉高麗御陣供養、義弘公上意今度無恙於致帰陣、安堵本領頴娃被返下、并義弘公女子可嫁之旨(以下略)」とあり、当初は頴娃久音に嫁ぐ予定であったらしい。


<年譜>
年度
(日本歴)
年度
(西暦)
年齢 出来事 出典
天正12甲申
7月6日
1584 誕生。父・島津義弘、母・園田清左衛門女 「島津氏正統系図」
「御家譜」十八代家久
「佐志島津家系図」
天正20
5月4日
朝鮮渡海中の父・義弘から様子を案じられる 「旧記雑録」後編2−882
文禄2
6月22日
朝鮮渡海中の父・義弘から様子を案じられる 「旧記雑録」後編2−1145
慶長2 1597 14 父・義弘が頴娃久音に御下を嫁すことを約束する 「伴姓頴娃氏系図」
(年度不明) 伊集院忠真と結婚 「島津氏正統系図」
慶長3?
5月5日
1598 15 義弘が安宅秀安と交渉して御下を帰国させようとするが、断られる
この頃京に人質として在住か?
「薩藩先公貴翰」208
慶長3
10月8日
婚約者の頴娃久音が高麗で病死<享年16歳> 「伴姓頴娃氏系図」
慶長4
3月29日〜
1599 16 庄内の乱勃発 「庄内軍記」その他頻出
慶長5
2月18日
1600 17 娘・千鶴(後 松平定行後室)誕生 「薩藩先公貴翰」243
「佐志島津家系図」
慶長7
8月17日
1602 19 兄・島津忠恒が上洛するときに、同行していた伊集院忠真を日向野尻で暗殺<享年27歳> 「島津世家」その他頻出
慶長12
2月1日
1607 24 母・園田清左衛門女が加治木にて死去 「旧記雑録」後編4−320、322
「御家譜」義弘
慶長18
5月11日
1613 30 幕府の命により、江戸に人質となるよう命じられる 「旧記雑録」後編4−1009〜1011
慶長18
6月23日
人質となることに対して兄・家久から感謝の書状を受け取る 「旧記雑録」後編4−1022
慶長18
6月24日
加治木を出発 「旧記雑録」後編4−1023
慶長18
7月19日
久見崎を出発 「旧記雑録」後編4−1023
慶長18
10月10日
この頃、大坂に到着
兄・家久と甥・兵庫頭に着物を贈る
「薩藩先公貴翰」238
慶長18
11月16日
江戸に到着 「旧記雑録」後編4−1023
慶長18暮〜
慶長19春頃
父・義弘宛に手紙を送る 「島津家文書」1408
「旧記雑録」拾遺1−332
慶長19
3月17日
1614 31 父・義弘に鮭2尺を送る 「町田氏正統系譜」久幸 343「御日記抄」
慶長19
8月28日
人質の褒賞として日向国諸県郡志布志槻野村2240石を家久から賜る 「旧記雑録」後編4−1157〜1159
元和元
9月21日
1615 32 江戸の屋敷が毛利藩邸からの失火の巻き添えとなり焼き出される
この時福島正則に助けられる
「旧記雑録」後編4−1302〜1304
元和2
3月25日
1616 33 駿河に滞在中の兄・家久と使者のやりとりをする 「旧記雑録」後編4−1331,1335
元和2
4月26日
京に滞在中の家久から手紙を送られる 「旧記雑録」後編4−1343
元和5
2月19日
1620 37 家久三男・兵庫頭(後の島津忠朗)と交代して帰国するよう幕府から許可が下る 「旧記雑録」後編4−1576〜1577
元和5
7月21日
父・義弘死去(享年85歳) 「島津氏正統系図」義弘
「旧記雑録」後編4−1614その他頻出
元和5
8月4日
娘・千鶴が松平定行の後妻となることが決まり、京で結婚式を見届けたい旨希望する 「旧記雑録」後編4−1627
元和5
11月13日
江戸を出発 「佐志島津家系図」
「町田氏正統系譜」久幸
元和5
11月30日頃
熱田(現名古屋市)に到着、娘・千鶴と別れる 「佐志島津家系図」
元和5
12月2日
熱田を出発、四日市へ到着 「佐志島津家系図」
元和5 冬 帰国後、人質の功に対して領地を3千石に加増される 「諸氏系譜」久明・忠清・忠広・久記・久房 忠清妹(千鶴)
元和7
5月3日
1622 39 家老・島津久元と再婚
しかし久元には妻(新納忠増女)が既におり、家久の命で久元は離婚させられてから御下と再婚した
「佐志島津家系図」
「島津氏正統系図」
「諸氏系譜」久明・忠清・忠広・久記・久房 忠清妹(千鶴)
元和8壬戌
6月10日
1623 40 久元との間に武千代丸(後の島津久近)を出産 「諸氏系図」尚久 久近
「旧記雑録」後編4−1774〜1776
「佐志島津家系図」
元和9?
5月5日
1624 41 島津久近の誕生に際して家久より手紙をもらう 「旧記雑録」後編4−1684
寛永6
7月16日頃
1629 46 島津家の家督相続に関して家久から相談の手紙をもらう 「旧記雑録」後編5−250
寛永9
6月11日
1632 49 自領に対する兵役を夫・久元が負担することが決められる 「旧記雑録」後編5−532
寛永10
7月12日
1633 50 先に家久から賜った領地3000石について無公役にする事が決定する 「旧記雑録」後編5−635〜636
寛永13
11月11日頃
1636 53 姉・島津御屋地が亡くなったことについて家久より書状をもらう 「旧記雑録」拾遺1−433
寛永13丙子
11月26日
息子・島津久近が急死する(享年15歳) 「諸氏系譜」尚久 久近
「旧記雑録」後編4−1774〜1776
「佐志島津家系図」
寛永14
6月29日
1637 54 御下領3000石について義理の息子・島津久通に相続するよう内意があったが、久通は辞退し、家久の息子の中から養子をとって相続するよう願い出る
この頃、久近の急死について久元先妻(久通実母)の祟りではないかという風聞があった
「旧記雑録」後編5−1062
寛永15
2月23日
1638 55 兄・家久が亡くなる(享年63歳) 「島津氏正統系図」その他頻出
寛永15
3月
久近の菩提寺として休外院を建立する 「旧記雑録」後編5−1292〜1293
寛永16
12月2日
1639 56 夫・久元が寿像を完成したのを祝って島津光久から書状をもらう 「旧記雑録」後編6−93
寛永20 1643 60 夫・島津久元死去(享年63歳) 「諸氏系図」尚久 久元
「旧記雑録」後編6−317,321
慶安2己丑
8月17日
1649 66 死去。法号「虚窓従白庵主」 「島津氏正統系図」
「諸氏系譜」久明・忠清・忠広・久記・久房 忠清妹(千鶴)
法号(別伝)「虚窓従白桂樹院殿」 「御家譜」十八代家久

この「兵庫頭」というのは、元和5(1620)に御下と人質役を変わった”兵庫頭”(後の島津忠朗)とは別人。忠朗の兄に当たる。詳しくは「鎌田政重女」を参照。

「町田氏正統系図」ではこの日に鹿児島に到着したように書かれている。

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