伊集院千鶴(松平定行後室、あふち)
慶長5(1600)年庚子2月18日〜万治元(1658)年戊戌5月4日<享年59歳>
<略歴>
伊集院忠真の唯一の遺児※。父・忠真が慶長4(1599)年「庄内の乱」で伯父・島津忠恒(後・家久)に反乱を起こし、慶長7(1602)年に忠恒によって殺害されたため、その後は母・島津御下と共に母方の祖父母である島津義弘・園田清左衛門女夫妻の住んでいた加治木で成長したと考えられる。
慶長18(1613)年、徳川幕府の命により母と共に人質となるため東上。元和5(1620)年、祖父・義弘の死で任を解かれるまで江戸で生活する。その後、従姉妹・島津朝久女の死去に伴い空白となっていた松平定行の後妻となるよう伯父・島津家久に命じられ定行と結婚。そのまま桑名、後に徳川幕府の大名妻子江戸在住の政策に伴い再び江戸に移住、遂に故郷の薩摩に帰ること無く亡くなった。結婚後は改名し「あふち」と名乗っていた(「日置島津家文書」)。
彼女の一生は母・島津御下と共に伯父・島津家久に踏みにじられ、利用され、振り回された様に思える。
年度 (日本歴) |
年度 (西暦) |
年齢 | 出来事 | 出典 |
慶長4 3月9日 |
1599 | − | 祖父・伊集院忠棟が伯父・島津忠恒に伏見で斬殺される | 「島津世家」「庄内陣記」その他頻出 |
慶長4 3月29日〜 |
庄内の乱勃発 父・伊集院忠真が伯父・島津忠恒と対立し反乱を起こす |
「庄内陣記」「島津世家」その他頻出 | ||
慶長5 2月18日 |
1600 | 1 | 誕生 父・伊集院忠真、母・島津御下 | 「佐志島津家系図」 「島津氏正統系図」義弘次女 「諸氏系譜」伊集院氏 忠真女 |
「千鶴(せんつる)」と名付けられる | 「薩藩先公貴翰」208 「佐志島津家系図」 |
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慶長7 8月17日 |
1602 | 3 | 父・忠真が上洛途中で伯父・島津忠恒の命によって日向野尻にて暗殺される 同日、祖母・島津久定女や父方の一族全員が暗殺される |
「島津世家」 「本藩人物志」国賊伝伊集院忠真 その他頻出 |
慶長18 5月11日 |
1613 | 14 | 幕府の命により、江戸に人質となるよう命じられる | 「旧記雑録」後編4−1009〜1011 |
慶長18 6月23日 |
人質となることに対して伯父・家久から感謝の書状を受け取る | 「旧記雑録」後編4−1022 | ||
慶長18 6月24日 |
加治木を出発 | 「旧記雑録」後編4−1023 | ||
慶長18 7月19日 |
久見崎を出発 | 「旧記雑録」後編4−1023 | ||
慶長18 10月10日 |
この頃、大坂に到着 | 「薩藩先公貴翰」238 | ||
慶長18 11月16日 |
江戸に到着 | 「旧記雑録」後編4−1023 | ||
元和元 9月21日 |
1615 | 16 | 江戸の屋敷が毛利藩邸からの失火の巻き添えとなり焼き出される この時福島正則に助けられる |
「旧記雑録」後編4−1302〜1304 |
元和5 8月4日〜 |
1620 | 21 | 松平定行(当時34歳)の後妻となり、京で結婚することが決まる | 「旧記雑録」後編4−1627 |
元和5 11月29日 |
松平定行と、伊勢桑名にて祝言をあげる | 「佐志島津家系図」 | ||
元和7 3月3日 |
1622 | 23 | 定行三女(松平中務大輔昌勝室)を出産※ | 「寛政重修諸家譜」久松松平(定勝流) |
定行の娘・おまん(酒井備後守室)を出産※ | 「佐志島津家系図」 | |||
寛永9 6月22日 |
1632 | 33 | 江戸へ移住のため桑名を出発 | 「佐志島津家系図」 |
寛永9 7月5日 |
江戸・桜田屋敷に到着 | 「佐志島津家系図」 | ||
寛永13 5月25日 |
1636 | 37 | 在京中の伯父・家久から書状をもらう | 「旧記雑録」後編5−923 |
寛永13 | 娘・おまん(16歳)が酒井備後守に嫁ぐ | 「佐志島津家系図」 | ||
万治元戊戌5月4日 | 1658 | 59 | 江戸の松山藩邸にて死去 法号「蓮香院」 江戸麻布の曹渓寺に葬られる |
「久松家譜」(伊予松山) |
(年度不明) | − | 藩の所在地である松山の法龍寺に納骨。法号「浄蓮院殿湖月貞鑑大姉」 | 「松山叢談」 |
※しかし、伊集院忠真関係系図には記載されない物の、他史料から忠真には千鶴の姉に当たる娘がいた可能性がある。参照:伊集院忠利女
※「寛政重修諸家譜」「久松家譜」(伊予松平)「松山叢談」では定行三女の生年は全く不明である。
「久松家譜」(伊予松平)では「前妻(=島津朝久次女)ハ島津陸奥守源家久ノ養女(中略)法号長寿院ト云、一男二女ヲ産ム、後妻(=伊集院千鶴)モ又陸奥守家久ノ養女(中略)法号蓮光院、子ナシ(以下略)」としており「松山叢談」も同じ説を採るが、
・朝久女は元和4(1619)年に死去していること
・松平昌勝は寛永13(1636)年3月11日に生まれていること
つまり定行三女を朝久女出生とすれば、定行三女と松平昌勝の間に最小でも17もの年齢差が開くので疑問がある。よって「久松家譜」「松山叢談」の説は疑問。
ちなみにこの定行の三女は「松山叢談」には「寛文元(=1661)年辛丑年七月朔日御逝去。専光院殿と諡し江戸霊岸寺へ御葬埋。」とある。
「徳川諸家系譜」越前松平家条によれば、松平昌勝には多数の子女がいたことが分かるが、この系図には母親が明記されていないため、定行三女が昌勝との間に子供を儲けたかどうかは判然としない。
松平昌勝については「越前島津屋形」掲示板での諸氏の御教示と「越前松岡藩」を参照。ありがとうございました<(_ _)>
※「佐志島津家系図」では”酒井備後守室”と書かれているが、「寛政重修諸家譜」「久松家譜」(伊予松平)など他史料では酒井備後守忠朝室となったのは松平定行次女(島津朝久女出生?の娘)である。混同があったと思われる。
<墓所>
曹渓寺(東京都港区)※火葬地
法龍寺(愛媛県松山市)