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鎌田政重女(島津家久(忠恒)側室、東ノ丸、加治木御袋様)

生年未詳〜寛文9(1669)年1月3日<享年不明>

<略歴>
慶長16年頃島津家久の側室となり、兵庫頭、忠朗ら男子5人女子5人計10人もの子を産んだ。同じ島津家久側室の川村秀政女とは義兄弟の関係(詳細は川村秀政女の説明を参照)。忠朗成長後は鹿児島城から加治木に移った。加治木では「東ノ丸」という場所に住み、そこから「東ノ丸様」と呼称されていたという。だが、鹿児島城にいたときから「東ノ丸」と言われていたようだ(「旧記雑録」後編)。
子供の数からも分かるように家久の寵愛は深かったらしく、時節不明ながら家久から都度都度書状をもらっている(「旧記雑録」附録2−776〜784)
その後、実子・忠朗を次期藩主にしようとしたが忠朗の異母兄・光久を後継に押す意見に屈し、最後は幽閉処分になったと伝わる。初子の兵庫頭が健在していたら運命が180度変わっていたと思われ、見ように寄れば悲運の女性であろう。


<年譜>
年度
(日本歴)
年度
(西暦)
年齢 出来事 出典
(年度不明) 誕生。父・鎌田政重、母不明 「島津氏正統系図」家久
慶長16頃 1611 島津家久の元に側室として上がる? 「家久公御養子御一件」
慶長17
12月9日
1612 長男・兵庫頭誕生 「島津氏正統系図」家久
「旧記雑録」後編4−977
慶長18
11月4日
1613 家久・兵庫頭と共に稲荷神社の祭りを見物する 「旧記雑録」後編4−1074「伊地知重康日記」
慶長19
1月28日
1614 兵庫頭夭折(享年3歳) 「島津氏正統系図」家久
「旧記雑録」後編4−977
慶長19甲寅
2月3日
家久の次女(後の北郷翁久妻)を産む 「島津氏正統系図」家久
元和元乙卯
4月20日
1615 家久の四女(後の種子島忠時妻)を産む 「島津氏正統系図」家久
慶長20(=元和元)閏6月頃 小瘡(=軽い天然痘?)を煩う
この頃「東ノ丸殿」と呼ばれる
「旧記雑録」後編4−1282
元和2
4月頃
1616 娘が麻疹を患う 「旧記雑録」後編4−1335
元和2丙辰
11月7日
家久の三男(実質次男)・忠平(後の島津忠朗)出産、幼名「兵庫頭」と名付けられる
すぐ上の異母兄・虎寿丸(後の島津光久)とは5ヶ月違いであった
「島津氏正統系図」家久
元和3
7月頃
1617 娘が重病を患うが回復する 「旧記雑録」後編4−1420
元和4戊午
9月13日
1618 家久の五女を産む 「島津氏正統系図」家久
元和5
2月上旬
1619 息子・忠平(後の島津忠朗)が島津家久と同行して上洛する
その後忠平は江戸に行き、島津御下と交代して人質となる
「旧記雑録」後編4−1570、1576
元和5
2月28日
忠平、鹿児島を出発 「本藩人物志」島津久元
元和5
3月24日
忠平、大阪着 「本藩人物志」島津久元
元和5
6月1日
忠平、京・二条城にて徳川秀忠に拝謁する 「本藩人物志」島津久元
元和5
10月20日
家久の六女を産む 「島津氏正統系図」家久
元和6(?)
5月1日
1620 父・鎌田政重に仕えていた山伏が又三郎(後の島津光久)を呪詛する祈祷を行ったことが発覚する 「旧記雑録」後編4−1679〜1680
元和6庚申
12月18日
家久の四男・忠広出産 「島津氏正統系図」家久
「旧記雑録」後編4−1769〜1710
元和6 この年加治木に移住する 「旧記雑録」後編5−533傍注
元和8壬戌
7月20日
1622 家久の八男・七郎(後の禰寝重永)出産 「島津氏正統系図」家久
「旧記雑録」後編4−1764
寛永元甲子
9月14日
1624 家久の八女(後の島津久頼妻)出産 「島津氏正統系図」家久
「旧記雑録」後編4−1858
寛永元
12月
この頃江戸に東上か? 「旧記雑録」後編4−1861〜1862
「薩藩先公貴翰」301
寛永2 1625 忠平(後の忠朗)が人質の任を解かれ、鹿児島に帰還する 「旧記雑録」後編4−1884
寛永2
5月26日
忠平と共に江戸を出発 「本藩人物志」喜入忠続
寛永2
7月15日
加治木に到着 「本藩人物志」喜入忠続
寛永2 この年帖佐(現鹿児島県姶良郡隼人町)に押し込め処分となる? 「本藩人物志」国賊伝”陽春坊”
寛永3丙寅
11月26日
1626 家久の十男(後の伊集院久国)を産む
家久との間に産んだ最後の子供となる
「島津氏正統系図」家久
寛永6
閏2月2日
1629 娘(家久五女)と肝付兼屋(11歳)が婚約する 「旧記雑録」家わけ4肝付氏「桃外院殿年譜雑伝」乾
寛永8
1月28日
1631 忠朗に祖父・島津義弘の遺領を相続させ、国政に参与させることを決定する 「旧記雑録」後編5−473
寛永9壬申
3月5日
1632 娘・北郷翁久室死去(享年19歳) 「島津氏正統系図」家久
寛永9
6月11日
兵の分配に関して、鎌田政重女の知行分の兵は忠朗が負担することを決定する
この頃「加治木御袋様」と呼ばれる
「旧記雑録」後編5−532
ちなみに上記の知行高は300石であった 「旧記雑録」後編5−593
(年度不明
寛永3〜10年頃?)
家久から”熊千代”に巾着を献上したことへのお礼や、家久の喉の病状が思わしくないことに関する書状をもらう 「旧記雑録」附録2−723
寛永11甲戌
8月18日
1634 家久の六女病死(享年16歳) 「島津氏正統系図」家久
寛永13
12月7日
1636 鹿児島より息子・忠広(この当時僧侶「宝寿院」)と娘(千鶴、満寿)用の着物を拝領する 「旧記雑録」後編5−967
寛永14
2月9日
1637 家久の隠居計画が持ち上がった際に、光久を廃して忠朗への家督相続をもくろんでいたことが明らかになる 「旧記雑録」後編5−1000
寛永14丁丑
3月24日
家久の五女病死(享年19歳) 「島津氏正統系図」家久
「旧記雑録」家わけ4肝付氏「桃外院殿年譜雑伝」乾
寛永14
8月16日
重病となった家久の看病のため、加治木から鹿児島に参上するが、ほどなく帰宅する 「旧記雑録」後編5−1078
寛永15戊寅
2月23日
1638 家久、鹿児島城で死去(享年63歳) 「島津氏正統系図」家久
他出典多数
(年度不明) 鹿児島武村(現鹿児島市武)に押し込め処分となる 「本藩人物志」国賊伝”陽春坊”
万治2 1659 この頃化粧料200石を保つ 「旧記雑録」追録1 859「鹿府万治高帳」
寛文9
1月3日
1669 死去(場所不明)法号「妙春大姉」 「種子島家譜」8十八代久時
年未詳
8月3日
死去 法号「桂室妙春大姉」 「御祭祀提要」

父・鎌田政重は「諸家系図文書4 藤原姓鎌田氏族略系図」(『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺』伊地知季安史料集3所収)によるともともと末田氏の出身で「公の命により」鎌田氏分家・将連の三男として養子になったという。この養子縁組、おそらく家久の側室となった娘の素性を隠すための工作で、しかもそれは島津家久の発案による物だったと考えられる。
末田氏には『本藩人物志』に朝鮮出兵の時に島津義弘に従ったという「末田藤兵衛重秋」関ヶ原の合戦の際島津義弘に従った「末田伴右衛門尉」2名が見える。余り身分が高くなく、島津義弘とのつながりがある一族だったように思える。一方の鎌田氏自体は島津氏に早くから仕えていた重臣で家老の家系。

「旧記雑録」4−1679朱注では「元和6年」と入っているが、忠朗が加治木領主となったのは寛永8(1631)年以降であり「加治木の屋敷の庭で祈祷していた」という4−1679の文章と矛盾する。4−1680では光久のことを元服後初名である「忠元」(光久元服は寛永元年10月14日。「旧記雑録」後編4−1859による)と書いていることから見ても寛永元年以降の話か。

傍注では元和6年に加治木に移住したとあるが、その後も家久との間に子供を産んでおり、この年に加治木に移住したのかどうか疑問。この傍注自体が島津忠朗と島津忠紀を間違えており、信憑性が薄いように思われる。

「本藩人物志」国賊伝”陽春坊”項では寛永2年に帖佐に押し込め処分となったとあるが、上記同様の理由で信じがたい。

「旧記雑録」後編4−1861〜1862には「今度江戸江東ノ丸幼少之子共同道を以凌遠路之波濤令難行苦行、加之幼稚之両子残置(以下略)」とでてくる。時期から考えてこの「東ノ丸」は島津忠清女と考えられるが、「本藩人物志」喜入忠続の記事に依れば鎌田政重女もこの時期に江戸に行った可能性がある。
また「幼稚之両子残置」からは2人の子供を鹿児島に置いて江戸にいったことがわかるが、島津忠清女の場合、鹿児島に置いていったのは女子(後の新城家・島津久章室)1人のみと思われるが、鎌田政重女なら上記年表で分かるように元和8年、寛永元年と出産しているため、この記述は全く矛盾しない。

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