新納忠増女(島津久元先室)

生年未詳〜没年未詳(寛永13年(1636年)以前)

<略歴>
新納忠元の孫娘。父・忠増も朝鮮出兵で貢献した武将であった。
島津忠長の次男である島津久元(初め新納本宗家を継ぐが後に宮之城島津家に復帰)に嫁ぎ2男2女を生んだ。ところが、元和7年に島津家久(忠恒)が夫・久元に島津御下との再婚を命じたことで運命は一変し、子供を置いて宮之城島津家を退去した。その後の消息は不明だが、世情は当然ながら彼女に同情を寄せ、後に島津久元と島津御下の間に生まれた久近が15歳で早世したときも「新納忠増女の祟り」との噂が流れた(「旧記雑録」後編5−1062)。
祖父・新納忠元は島津氏の興隆に貢献した第一の武将との評価が高い中で、彼女に対する家久(忠恒)の扱いはかなりひどい物ではないかと思われる。島津家久(忠恒)のために人生が狂った大勢の女性のうちの1人であろう。


<年譜>
年度
(日本歴)
年度
(西暦)
年齢 出来事 出典
(年度不明) 誕生 父・新納忠増 母・猿渡信孝女 「諸氏系譜」新納氏 忠増長女
慶長9
12月29日
1604 久元長男・鎌安丸(久通)を生む 「諸氏系譜」尚久 久通
(年度不明) 久元長女(後 佐多忠治室)を生む 「諸氏系譜」尚久 久元長女
慶長15
6月
1610 久元兄・忠倍の死去により宮之城へ移る 「諸氏系譜」尚久 久元
慶長15
10月6日
久元次男・信竜(基多村久茂)を生む 「諸氏系譜」尚久 久茂
(年度不明) 久元次女(後 島津久盛(久基)室)を生む 「諸氏系譜」尚久 久元次女
元和7
5月3日以前
1627 夫・久元が島津御下と結婚するよう島津家久に命じられる
このため、久元と離婚し宮之城を去る
「旧記雑録」後編5−1062

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