大田於松(島津亀寿女中)

天正7(1579)年〜寛永21(1644)5月23日<享年67歳>

<略歴>
慶長頃の女性。上洛して、島津亀寿の元に使える。
慶長5年9月、関ヶ原の合戦が勃発した際に、島津亀寿は義母の園田清左衛門女と共に西軍側人質として大坂城下に捕らわれていたが、島津義弘が戦死したという誤報のために園田清左衛門女には豊臣氏から帰国の許可が下った物の、島津亀寿の帰国は許されなかった。そのため平田増宗、吉田清孝、相良長辰らが亀寿の影武者を建て豊臣側を欺こうとした際、自ら亀寿の身代わりになると申し出たのが於松だという。
その後島津亀寿を脱出させた後、於松も混乱に乗じて大坂を脱出、途中で合流して無事に鹿児島に帰国し、その恩賞として300石を賜った。この300石を後に弟・大田忠安に譲ったことや史料に夫の名前が見えないことから見て一生独身であったと考えられる。
父・大田忠秀は薩州家分家の大田家の更に分家筋に当たる。但しその後子孫が無く断絶した。(「諸氏系譜」大田氏、「本藩人物志」)


<年譜>
年度
(日本歴)
年度
(西暦)
年齢 出来事 出典
天正7 1579 長女として誕生 父・大田忠秀 母・種田氏女 「諸氏系譜」大田氏 忠秀女子於松
「本藩人物志」女子伝 大田氏女
慶長5
9月15日
1600 22 関ヶ原の合戦勃発 「惟新公関原御合戦記」その他頻出
慶長5
9月19日頃
島津亀寿を大坂より脱出させるために、亀寿の名代になる旨を申し出る 「諸氏系譜」大田氏 忠秀女子於松
「本藩人物志」女子伝 大田氏女
慶長5
9月22日
大坂を脱出、島津亀寿と園田清左衛門女について鹿児島へ帰国 「惟新公関原御合戦記」
「本藩人物志」女子伝 大田氏女
(年度不明) 亀寿の名代を申し出た功により、300石を賜る 「本藩人物志」女子伝 大田氏女
寛永21
5月13日
1644 67 死去 法号「海月妙知」 「諸氏系譜」大田氏 忠秀女子於松

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