系図(島津氏<宮之城島津家>)

<概説>
宮之城島津家は島津貴久の異母弟・島津尚久に始まる家系である。家名は、慶長5年に朝鮮の役の加増・関ヶ原の戦い後の政情不安に備えるために宮之城に移転した事による。

初代・尚久は枕崎鹿籠の領主となり、兄・貴久の元で戦に明け暮れたが永禄5年(1562年)3月1日に32才の若さで病死した。その遺児・忠長は貴久の息子・義久の元で父同様に活躍し、天正11年10月に義久の推挙によって国老となった。それまで島津氏の家老は代々家老を出した家系から選ばれることが多く、近親者から家老となった忠長は異例の存在であった。その後も忠長は「岩屋城の戦い」(天正14年(1586年))で大将を勤めるなど前線で活躍を続けるが、天正15年(1587年)に義久が豊臣秀吉の前に屈すると、一緒に出家し「紹益」と名乗った。京都にも人質に出され、その時に島津歳久の首が秀吉の命で一条戻り橋にさらされる事件があったときには、その首を密かに取り返している。また、秀吉から領地を賜るとも言われたが固辞し、義久に着く態度を変えなかった。文禄の役が始まると秀吉の指名により高齢にも関わらず島津忠恒の補佐役となり朝鮮半島に渡った。これは義久寄りの態度をとる家老達を朝鮮半島に追い払うことで検地をしやすくしようとした石田三成の計略があった物とされる(山本博文氏説)。慶長の役では慶長3年(1598年)泗川の戦いでいわゆる「ステガマリ」の役を見事に務めて明軍の大敗のきっかけを作った。このことで日本中に名前が轟き、浅野長政にも激賞されている。関ヶ原の合戦後は黒田孝高らの推挙により、新納旅庵、鎌田政近等と上洛して徳川家康に対して弁明に勤め、島津家の本領安堵にも重要な役割を果たした。宮之城島津家は忠長の功績により島津家の分家の中でも屈指の家格を誇る家となる。

忠長は慶長11年(1606年)に長男・忠倍に後を譲って隠居するが、この忠倍が父より先に亡くなったため、新納本家の跡を継いでいた次男・久元(新納忠在)が呼び戻されて跡を継いだ。久元も父・忠長に負けず共劣らない名家老であり、徳川幕府との折衝に活躍した。藩主・島津家久(忠恒)はこの久元に目を付け、江戸の人質から戻ってきた39才の妹・島津御下を久元の妻としたが、この時久元は既に新納忠増女を妻としておりその間に子供も4人いたため、家久(忠恒)によって無理矢理離婚させられて後に御下と再婚する羽目になった。新納忠増女は藩主の命令故と、渋る夫・久元を説得して家を出ていったという。この事件は宮之城島津家に暗い影を落とし、後に久元と御下の間に生まれた島津久近が15才で夭折すると新納忠増女の祟りという噂が流れたくらいであった。

久元の後を継いだのが長男・久通である。久通も祖父・忠長、父・久元に負けない名家老であり、三代藩主・島津光久の功績の多くが久通による物と言っても過言ではない。また史料の収集にも熱心であり、「島津世家」「島津国史」の元となった「島津世録記」や朝鮮出兵の記録「征韓録」を編纂したのはこの久通である。久通は島津義弘と島津御屋地の意向により従姉妹の島津忠倍女(祖母が島津御屋地)を妻としていたが、久通の後を継いだのはこの妻との間に生まれた久竹であった。しかし、久竹以降は夭折する当主が多く、幾度も婿養子をとって家名を存続させている。明治維新時の当主も婿養子の島津久治(島津久光の次男)。その後、明治30年(1898年)に華族に列し男爵家となる。

ところで、宮之城島津家はこのように重要な家であるために本宗家とも二重三重の血縁関係を結んでいる。島津久元の次男・島津久茂は喜入忠政の養女を妻としていたが、この養女、実は母方祖母は皆吉続能女であり、島津光久の従姉妹にあたる。ところが、この養女はこの祖母の影響を受けた強固なキリシタンであることが後に発覚、このために久茂はこの妻と離婚させられている。2人の間に生まれた一女は島津光久の養女となり、後に佐土原3代目藩主・島津久雄の後室となった。

参考文献
『宮之城町史』(宮之城町)
『戦国大名島津氏の領国形成』(福島金治 吉川弘文館(中世史研究叢書))
『島津義弘の賭け』(山本博文 講談社文庫)
『戦国女系譜』(楠戸義昭 毎日新聞社)
「島津義久の孫達」(『歴史研究』475号)

<系図>

(系図参照文献)
・『宮之城町史』(宮之城町)
・『「さつま」の姓氏』(川崎大十)


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