皆吉続能女(小西行長室?後島津忠清室、永俊尼、堅野カタリナ、立野殿)
天正3(1575)年〜慶安2(1649)年9月8日<享年75歳>
<略歴>
島津義虎・御平夫婦の三男・島津忠清の妻で、一女(島津家久後室、島津光久ら母)一男(新納忠彰)を産む。
実は忠清とは再婚で、最初の夫は小西行長だったという史料もある(「旧記雑録」後編5−884添書)が、イエズス会史料に見える小西行長室の洗礼名”ジュスタ”と皆吉続能女の洗礼名”カタリナ”が全く異なるため疑問。但し、忠清の前に別の夫がいたのは確かで、その夫との間には一女(喜入忠政後室)がいた。
慶長14(1609)年に夫・忠清と共に家族で鹿児島に脱出。娘が家久の側室となり虎寿丸(後の島津光久)を産んだことで地位が向上し、夫・忠清の死後は堅野(現鹿児島県冷水町)に住み、出家して「永俊尼」と号した。
しかし、寛永10(1633)年に隠れキリシタンであることが発覚し捕縛、寛永12(1635)年に種子島に蟄居・閉門となり、人との交流を絶たれた中その地で病死した。本来なら死罪も免れないところを種子島への流刑で済んだのは次期藩主・島津光久の祖母だったためと思われる。ちなみにこの後連れ子(喜入忠政後室)とその娘(喜入於婦理、喜入忠政女・鶴)もキリシタンであることが発覚、種子島に共に流刑となっている。
年度 (日本歴) |
年度 (西暦) |
年齢 | 出来事 | 出典 |
天正3 | 1575 | 1 | 誕生。父は皆吉続能(小西行長家臣)、母は不明 | 「旧記雑録」後編5−884 |
(年度不明) | 最初の夫(小西行長?)との間に娘(後の喜入忠政後室)誕生 | 「旧記雑録」後編5−884 | ||
慶長5 | 1600 | 26 | 肥後国にて島津忠清との間に娘(島津家久後室)誕生 | 「旧記雑録」諸氏系図3薩州用久「忠清」 |
小西行長が関ヶ原の合戦で負けたことから、後継領主となった加藤清正の元に家族共に捕らえられる | 「旧記雑録」諸氏系図3薩州用久「忠清」 | |||
慶長9 | 1604 | 30 | 肥後国にて島津忠清との間に息子(後の新納忠影)誕生 | 「旧記雑録」後編4−1887 「旧記雑録」諸氏系図3薩州用久「忠清」 |
慶長14 | 1609 | 35 | 薩摩国・阿久根に家族共に帰還する この時最初の夫との間の娘(後の喜入忠政後室)も同行させる |
「旧記雑録」諸氏系図3薩州用久「忠清」 |
元和2丙辰 6月2日 |
1616 | 42 | 家久の側室となった娘が島津光久を出産 | 「島津氏正統系図」光久その他頻出 |
元和3 2月22日 |
1617 | 43 | イエズス会の神父の一人を匿いミサを行う | イエズス会日本通信 マテウス・デ・コロレス長崎発(JAP-SIN 58 437−38)※ |
元和6 1月5日 |
1620 | 46 | 夫・島津忠清が死去(享年50)、興国寺(現鹿児島県冷水町、現在廃絶)に葬られる | 「旧記雑録」諸氏系図3薩州用久「忠清」 |
このころ堅野(現鹿児島県冷水町)に転居、夫の菩提を弔うため落飾、「堅野永俊尼」と言われる | 「旧記雑録」後編5−884 | |||
寛永2 3月18日 |
1625 | 51 | このころ鹿児島藩内のキリシタンを多数匿ったため島津家久に棄教を迫られる | イエズス会日本通信 ジョアン・ロドリーゲス・ジラムマカオ発(JAP−SIN 60 344−344v;460v)※ |
寛永2乙丑 7月21日 |
娘(島津家久後室)江戸で死去(享年26歳) | 「旧記雑録」後編4−1886〜1888 「旧記雑録」諸氏系図3薩州用久「忠清」 |
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寛永5戊戌 12月29日 |
1628 | 54 | 息子・新納忠影死去(享年25歳) | 「旧記雑録」後編4−1887 「旧記雑録」諸氏系図3薩州用久「忠清」 |
寛永8 5月19日 |
1631 | 57 | 家久から「弥九郎」なる幼少の頃から使っていた家来の病状について見舞いの手紙をもらう | 「旧記雑録」後編5−399 |
寛永10 8月24日 |
1633 | 59 | 隠れキリシタンであったことが発覚、捕らえられる | 「旧記雑録」後編5−639 |
寛永12 12月7日 |
1635 | 61 | 種子島大長野(現・熊毛郡中種子町野間大長野)に流刑の処分となる | 「旧記雑録」後編5−884 「種子島家譜」5十七代忠時 |
寛永16 3月9日 |
1639 | 65 | 法華宗に改宗したい旨を伊勢貞昌に伝えるが、口先だけの改宗であることを見抜かれ、閉門蟄居は解かれず | 「旧記雑録」後編6−15 |
寛永16 6月28日 |
娘(喜入忠政後室)、孫娘(喜入忠政女)も隠れキリシタンで有ることが発覚、種子島赤尾木(現・鹿児島県西之表市)石之峰に共に押し込められる | 「種子島家譜」5十七代忠時 | ||
慶安2 9月8日 |
1649 | 75 | 種子島井上(現・鹿児島県西之表市)にて死去 法号「成等院妙正大姉」 島津光久の使者・大島忠知が香典三千疋を奉納 |
「種子島家譜」6十七代忠時 |
万治3 11月16日 |
1660 | − | 娘(喜入忠政後室)種子島井上にて死去 | 「種子島家譜」8十八代久時 |
元禄10 11月14日 |
1697 | − | 孫(喜入忠政女)お鶴、種子島井上で頓死 | 「種子島家譜」9十八代久時 「喜入氏系図」 |
※「イエズス会日本通信」はいくつかの邦訳が出ているが、この部分に関してはまだ史料集としては邦訳されていないようである。この邦訳は『鹿児島のキリシタン』で結城了悟氏が紹介した物を参照した。
<墓所>
栖林神社内 種子島家墓所(現 鹿児島県西之表市西之表)
なお皆吉続能女らの墓所については「日本福音ルーテル東京教会」HP「きずな369号」の記事を参照した。