関ヶ原(島津関連超限定)>ロバスで行くはずだった上石津 その5
※このページは「島津豊久の墓」に関するばんない独自の考察です。なので、見解や結論も現在通説とされている物とは少々異なります。上石津町その他諸団体とは関係ありません。
※今までの考察はこちら
「島津豊久上石津埋葬」説に関する文書資料はすべて江戸時代後期以降に書かれたようで、死去当時の史料はないようです。
次に、上石津に伝わっている(伝わっていた?)物的史料を検討してみます。
史料其の六
「豊久の位牌」
上石津町にある島津豊久の菩提寺・瑠璃光寺には豊久の位牌なる物が今もあります。ところが、そこに書いてある戒名が島津家に伝わっている物とは全く別の物であることは先述しました。再度確認します。
つまり、上石津の三輪家は島津家と連絡が取れないまま、独自に戒名をもらって豊久を供養していたことが伺えます。
が、この戒名、よくよく見ると問題があります。
嶋光院殿忠道源津大居士
まず「○○院殿」という立派な戒名ですが、豊久は大名なので一見おかしくないように見えます。が、実は島津家当主で「院殿」戒名をもらった初めての人物は島津忠恒(後改名して「家久」、寛永15年(1638年)没)です。豊久はその前の慶長5年(1600年)に死んでいるのに?
また、「嶋」「津」がおそらく苗字から取られたことは間違いありません。じゃ、「源」って?氏から取られたとすると年代的に矛盾があります。というのも島津家が源氏末裔をしきりに公称し出すようになるのは19代当主の島津光久(寛永15年家督相続)からです。それ以前は「藤原氏」を称していたから、豊久の戒名も「藤津大居士」と続かないとおかしいはず。
ということはこの戒名がつけられた時期は、最も古くても寛永15年までにしかさかのぼれないのではないでしょうか。
史料其の七
「豊久の墓石」
こちらに写真を載せていますが、宝筐印塔(もどき)及び五輪塔とも銘文らしい物は見あたらず、墓石からは誰の墓か見分けるのは無理な状態です。
史料其の八
「伝島津豊久公鎧」 写真はこちら
豊久ファンなら知らなければモグリヾ(^^;)の「紺糸威し胴丸」でございます。現在は豊久の末裔家とされる永吉島津家の所有ですが、管理は鹿児島県の尚古集成館に委託されてますので、鹿児島に行けば見られるかと思います(常設展示かどうかは不明)。
ところがこの鎧の入手経路も、史料によって伝わっている話がまちまちなのです。
『鹿児島外史』(1884年頃に伊加倉俊貞という士族出身者が書いた物らしい)には
関ヶ原付近の某寺にあり
と書かれ、
「西藩野史」には
予、(島津)久芳君ニ聞ク、(島津)久柄(=久芳の父)カツテ豊久関ヶ原ニ着用シタル鎧を求メ得タリ、冑ハナシ、槍ノ跡二ツ、或イハ付キスベリ、或イハ糸ヲ突キ断チタルモアリ、裏ニ通レルハ少シ
とあるそうです。※当該カ所は近代デジタルライブラリー版では落丁のため所収無し(T-T)
また『佐土原藩史稿』(1950年に桑原節次という郷土史家が書いた本 こちら参照)では
肥後相良の相良清兵衛という人が関ヶ原合戦に参戦していたが、豊久が苦戦していたのを見て之を救おうとしたが及ばず、自分も危うくなり遁げ帰った。合戦後、この清兵衛の孫が江戸に於て或る日一武具店に、金銀十文字の列紋のある鎧を見つけて之を買い求め、直ちに薩摩屋敷に行き、(島津)中務久貫に面会して、
「祖父清兵衛が関ヶ原の戦況を泣いて語るのを聞いたが、豊久公が十字列紋の鎧を着し身に重創を被り鮮血淋漓として奮闘、大軍を郤くること八、九回に及んだが遂に敵鋒に倒れられた。公の武勇は実に関ヶ原第一と謂ふべきである。汝等よく覚えておき戦場の規範とせよと言い聞かせられた。今日偶然にも此の鎧を発見したので進呈する次第である。」
と語った。薩摩藩の家老の上席にあった久貫は之を聞いて非常に感激し、長く島津家の家宝にすると述べた。
とあるそうです。
このうち一番信用ならないのが、最後に挙げた『佐土原藩史稿』所収の話と考えます。
書かれた年代が新しいからというのが理由ではなく、登場人物があまりにも胡散臭いからなのです。
「肥後相良の相良清兵衛」とは別名「犬童頼兄」、人吉藩の筆頭家老でしたが、後に藩主・相良頼寛と不和となり、徳川幕府を巻き込むお家騒動を起こして(お下の乱)清兵衛は津軽藩に流刑となっています。実は、豊久の死後ですが、この相良清兵衛家と豊久は親戚関係になっています。また相良氏は確かに関ヶ原の合戦で西軍には参加してましたが、本戦には参加せず大垣城籠城組でしたので、上記の話自体が後からの作り話であることは明白です。
おそらく、清兵衛の子孫が鹿児島に移り住んだ後に上記の話を創作し伝えてきた物を、昭和になって桑原氏が採録してしまったというのが真実なのではないかと思います…まあ相良清兵衛が豊久と親戚なんて巧妙な話、かなり調べないと分からないですしね(^^;)
上記に挙げた史料の中で一番成立年度が古いのが「西藩野史」(…それでも江戸後期ですが)。この記述は確かに現在尚古集成館管理となっている鎧との一致点が多いです。数カ所槍状の物で突かれた跡があり、糸が切れたところがある物の、貫通したような破損はないそうです。
そしてお揃いの筈の兜がありません。
以上から、「豊久の鎧」の入手経緯については「西藩野史」が正しいのではないかと考えます。
なお、一番最初に挙げた『鹿児島外史』の「関ヶ原の某寺」というのを上石津町発行の小冊子では瑠璃光寺としていますが、関ヶ原周辺に寺はたくさんありますので何とも言えません。
以上から、「伝島津豊久の鎧」は江戸時代中期に永吉島津家7代当主の島津久柄が入手した物と考えますが、どこからどうやって入手し、また何故豊久の鎧と断定したのかは、今のところ謎です。
上石津の「島津豊久の墓」に関する史料は管見では以上ですべてです。
ほとんどが豊久の死後かなり経ってからの史料という問題点があります。
しかし私はそこにこそ、この「豊久の墓」が真実なのではないか、とする理由があると考えています。
この上石津が関ヶ原の合戦当時は西軍→東軍となった関一政の領地であり、関氏が転封したあとは徳川家康の旗本である高木家の領地となったことは先述しました。−つまり、西軍の、それも奮戦した島津豊久を案内した(或いはかくまった)という話は、領民にとっては領主に知られたくないタブーであったことは言うまでもありません。
墓が粗末なこと、位牌も関ヶ原合戦終了から数十年以後に作られたと思われることは、その推測を裏付ける物ではないかと考えています。
上石津領主・高木氏は木曽三川の河川奉行を兼任していたため、宝暦4〜5年(1754〜55年)の宝暦治水工事担当となった鹿児島藩の監督官となります。この時に大勢の鹿児島藩士がこの地にやってきたことで、上石津に伝わる「豊久の墓」についても見聞きする機会に初めて恵まれたのではないかと推測されます。
そして、その35年後の寛政元年(1789年)、その鹿児島藩側のアクションにより一方の当事者だった小林家からの督促があり、遂に「豊久の墓」に関する話が文書化されるのです。
最後に、直接「豊久の墓」とは関係ないですが、豊久の死に関係するのではないかと思われる史料を挙げておきます。
史料其の七
「徳川家康田中吉政宛直書及び村越直吉添状」 現物はこちら(早稲田大学図書館所蔵)
これは慶長5年9月19日、つまり関ヶ原の合戦わずか4日後に書かれたものです。今回挙げた史料で一番時代が確実にさかのぼれる物ですね。
内容は徳川家康が田中吉政に下した「石田三成、宇喜多秀家、島津惟新(=義弘)の三人を見つけ次第捕らえるように」という命令書です。この後三成は捕らえられましたが、秀家、義弘は薩摩まで逃げ延びます(但し、島津家が徳川家と和睦した後、秀家は久能山に幽閉されましたが)。
この中に島津豊久の名はありません。豊久は伯父・義弘の与力的扱いになっていたため挙げるほどでもないと思われたのかもという指摘もあるでしょう。しかし、豊久は小さいとはいえ豊臣秀吉に朱印状をもらった大名です。もし消息不詳であれば、この書状に名前が挙げられていないとおかしいのではないかと私は考えます。−つまり、この書状を出した時点では、家康は豊久の死を確実に確認していたのではないかと考えます。
そして、「伝島津豊久の鎧」にはセットになっているべき兜がない…
−つまり…ということです…。
…終わりにかえて、まとめの年表。
年度 | 西暦 | 出来事 | 参考文献 |
慶長5年9月15日 | 1600 | 関ヶ原の合戦、島津豊久戦死(?) | (出典多数) |
上石津の庄屋・三輪内助が豊久の遺体を荼毘に付し、骨壺2つを管理する | 「小林次郎左衛門宛三輪孫大夫覚書」 | ||
織田秀信家臣・小林正祐が近江国多賀まで島津義弘一行を道案内し感状をもらう(?) | 「島津忠平 小林新六郎宛感状」 | ||
慶長5年9月19日 | 徳川家康が逃亡中の石田三成・宇喜多秀家・島津義弘を捕縛するよう命令書を下す | 早稲田大学所蔵文書 | |
宝暦4〜5年 | 1754〜1755 | 宝暦治水事件 多数の鹿児島藩士が美濃国に来る |
(出典多数) |
寛政元年6月7日 | 1789 | 三輪内助の8代孫・孫大夫が、西高木家侍医の土屋春民に呼び出しを受ける | 「一件覚日記」 |
寛政元年6月9日 | 土屋春民の姉・佐渡の要請により、島津家を案内したときの覚え書きを作成することを承諾する | 「一件覚日記」 | |
寛政元年6月13日 | 三輪孫大夫が小林次郎左衛門に島津義弘・豊久の件に関する覚え書きを書いて渡す | 「小林次郎左衛門宛三輪孫大夫覚書」「一件覚日記」 | |
寛政元年7月20日 | 小林次郎左衛門が三輪宅を訪問、書き付けを渡す | 「一件覚日記」 | |
寛政元年8月9日 | 勘左衛門が小林宅を訪問し、お礼として豊臣秀頼筆の短冊為る物(現在瑠璃光寺蔵)をもらってくる | 「一件覚日記」 | |
寛政元年8月13日 | 勘左衛門、三輪家に帰宅 | 「一件覚日記」 | |
寛政元年8月〜12月 | 小林家より礼状をもらう | 「一件覚日記」 | |
寛政2年1月11日 | 1790 | 三輪家から小林家へ飛脚を送る | 「一件覚日記」 |
寛政2年2月1日 | 小林家より返事をもらう | 「一件覚日記」 | |
寛政2年2月8日 | 去年小林家に渡した覚書の写しをとる | 「一件覚日記」 | |
寛政5年5月 | 1793 | 三輪孫大夫、「豊久の墓」に関する瑠璃光寺の住職・玄透和尚の質問に対して回答を送る | 「三輪孫大夫玄透和尚宛書状」 |
文化9年 | 1812 | 島津重豪の命で作成された伝説集「倭文麻環」に上石津の豊久の墓の話が採録される | 「倭文麻環」 |
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