×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

関ヶ原(島津関連超限定)>ロバスで行くはずだった上石津 その3

前の話はこちら

島津豊久の「墓」と「菩提寺」へ向かいます。

「白拍子谷」よりちょっと北寄りに三叉路があります。※地図ではこちら powered by mapionbb

向かって右に曲がるのが正解。実は看板が立っているので、まあ間違えないと思いますが。
ちなみに右の方の道が旧道です…ってまっすぐの方も旧伊勢街道だから、右の方は「旧々道」と言うことになるんでしょうか(^^;)

その曲がる辺りのガレージっぽいのが地元中学生向けの自転車置き場です。その中学生による豊久ファンなら泣ける看板があります。愛されてますね、豊久…ヾ(^^;) ※クリックで表示します。

「旧道」といっても割と広めのなだらかな上りの坂道が続きます…。


先ほどの三叉路から歩いて10分ぐらいで盛大に土木工事中の場所に到着。どうも国道と接続する新しい道を作ろうとしているようなんですが…

島津豊久の墓は、この脇にあります。
※地図はこちら powered by mapionbb
上多良公民館という建物の筋向かい。分かりやすいです。

看板も立っています。
上石津町は関ヶ原町と違って観光で成り立っている町ではないんですが、所々にこういう看板が立っているので本当に分かりやすかったです。

※写真の看板クリックすると拡大表示します。


参道が綺麗に整備されてます。
…ついでに念押しのように「島津豊久公墓所」の石碑も(^^;)
※写真クリックで拡大表示



先ほどの看板からすぐで、林の中にある島津豊久の墓所に到着。
看板2枚+石碑1基に更に念押しするように、ここにも2つも石碑が⊂(。Д。⊂⌒`つ
ちなみに手前の四角いのが前鹿児島県知事・須賀龍郎氏揮毫、奥の丸い石碑が岐阜県上石津町・鹿児島県吹上町奉賛会による物。ちなみに吹上町は豊久の後裔家に当たる永吉島津家の私領があった場所です。
※石碑をクリックすると拡大写真を表示します

また左にある神社はお稲荷さん(白菊稲荷)です。実はこのお墓に微妙に関係があるのかも…後述。

このおいなりさんのちょうど隣に豊久のお墓があります。
 ※写真クリックすると拡大表示
…実は写真をよく見れば分かるのですが、この墓所なんと墓石が2つあります…これに関しては上石津郷土資料館で入手した冊子にも説明が無くです。
向かって右にあるのが高さ30cm程度の五輪塔、左にあるのが宝筐印塔…のような?
その「宝筐印塔」もどきを拡大撮影。
…真ん中のパーツが無くなったのかも知れない。

立派な御花が供えられているところからみて、お世話してもらっている様子なのでちょっと安心。
私もお花…と思ったんですが、ちょっとかさばるのでお香備えてきました

100均のインセンスですが_(。_゜)/
御免ねー豊久 だって豊久に毎○香は似あわないって思ったんだもーん

にしても、宝筐印塔もどきにお花があるということは、こっちが豊久のお墓と言うことでしょうか。
後ろには、先述の史料でも言及された「椿の木」が生えていて、そこに2000年の400回忌の時に書かれたとおぼしき卒塔婆が立てかけられていました。ちなみに戒名は「嶋光院殿忠道源津大居士」で、島津家側の史料に伝わった物とは全く異なります(ちなみに島津家に伝わった戒名は「天岑昌運」(「本藩人物誌」など))。

ちなみに地元に伝わる伝説では、「豊久の無念のために、この墓の周辺には草が生えない」と言うことですが、
ホントに生えてませんでした… (((((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル  

このお墓のすぐ近所に菩提寺の瑠璃光寺があります。※地図はこちら powered by mapionbb
…このページ上から3枚目の写真でも屋根だけ見えてますね(^^;)
ちょっと高台に建っているお寺です。
※クリックすると拡大写真

門の隣に赤い旗が一杯立っていますが、実は同じ寺の境内に先ほど豊久の墓の横にあったのと同じお稲荷(白菊稲荷)さんが祀られています。

ちなみに、このお寺は島津家宗旨と同じ 曹洞宗 です。長寿院の悲劇が繰り返されずに良かった…。


門の横には真新しい石碑が これは前岐阜県知事・梶原拓氏揮毫。高木氏陣屋と一緒です。

本堂はこんな感じ。
境内は自由に参拝できますが、本堂の中には入れません。
この本堂の中に島津豊久と道案内をした庄屋・三輪内助の位牌が安置されています。

…実は住職らしい人をちらっと見たので、挨拶すれば見せてもらえたのかも知れない。しかし、それをすると時間から見て帰りのバスにおそらく乗れないと言う諸刃の剣…。あきらめました(T∀T)。
あと蛇足ながらお騒がせしました<(_ _)> こんな所で挨拶

この本堂の真横に先ほどから何回も名前がでているお稲荷さん(白菊稲荷)の本殿があります。

上石津郷土資料館の小冊子でも余りこの稲荷神社について詳細を書いていません。ただ、写真説明に「(瑠璃光寺)境内に移された稲荷社」とあるので、元々は豊久の墓にあった物がこちらに移されたのかも知れません。豊久の墓横の神社には「奥宮」と書かれていたのも気にかかります。後考を期したいと思います。

ちなみに稲荷神は島津氏の守護神として認識されていた神様です(その割に鹿児島県には稲荷神社少ないですが)。

丁度帰りのバスの時間が迫ってきたので、名残惜しいですが上石津を去ることにします。
※写真クリックすると拡大。向こうにバスが見えますか?

帰りは牧田上野(長寿院盛淳の墓のあるところです)で1回乗り換えして合計¥770(上多良−牧田上野:¥500、牧田上野−関ヶ原:¥270)也…高い…しかしそれでもタクシー代より遙かに安い…

ちなみに乗客最初から最後まで私だけでした(○。○)…。

島津豊久の墓の前辺りから、たぶん豊久が登りたかっただろう伊吹山脈を見た写真。

さて、島津隊のその後ですが
伊勢街道本道を通った島津義弘の隊は、偶然撤収中の小林正祐為る地元の地理に詳しい侍に会い、この人の案内で伊吹山脈を越え、多賀(現在の滋賀県多賀町)まで逃げられたと言います。
上石津郷土資料館の方のお話に寄れば、この時に、島津軍は地元民に逃亡中の姿を見つけられその地元民は斬り殺された(○。○)…という古文書があるらしいのですが…なんとその肝心の古文書だけが展示されておらず、小冊子にも記載無し_| ̄|○(遭遇したらしい場所の写真展示はありましたが…)

ちなみに、小林正祐は織田秀信の家臣でしたが、ご存じのように秀信は西軍に付き岐阜城に籠城するも、あっという間に負けて開城させられます。そのため小林も自領(現在の滋賀県彦根市河瀬)に撤収する途中だったようです。…まあ、小林に東軍に引き渡されなくて良かったですね…。

次にこの豊久墓所について、ちょいと考察してみます。
…ということで、まだ続く

上石津2へ戻る 関ヶ原目次へ戻る 関西の島津氏史跡目次へ戻る 表紙に戻る