関ヶ原(島津関連超限定)>ロバスで行くはずだった上石津 番外編
(1)「きじもなかずばうたれまい」
この上石津町が徳川幕府旗本(交代寄合)で木曽三川の河川奉行だった高木家の領地であったことは散々既出です
が
この領地で、あの宝暦治水工事のために、そのとばっちりを受けた商人がいたことは余り知られていないのではないでしょうか…
ここでちょっとだけ紹介した高木家分家・東高木家菩提寺の松貞山本堂寺 ※地図はこちら powered by mapionbb
ここにそのとばっちりを受けてしまったかわいそうな方の慰霊碑があります…
その犠牲者の名前は「舛屋伊兵衛」といいます。
階段を上ったところにある境内の一番奥に、4つの慰霊碑と1つの説明の石碑があります。
石碑の説明に寄りますと、
舛屋伊兵衛はこの地の出身でしたが後に江戸に上り商人となります。その縁で高木家の御用商人となったようです。このときに商売上のつきあいから鹿児島藩家老であった平田靭負とも知り合いであったとも言われています。
宝暦の頃には高木家に従ってこの地に戻っていたようです。そして宝暦治水工事に巻き込まれます。失敗に続く失敗でいつまでも終わらない難工事に、舛屋伊兵衛はお殿様・高木家、自殺や病死の相次ぐ鹿児島藩、ちっとも生活が改善されず疫病死の相次ぐ領民らの間に立ち、精神的にも追い込まれていったようです。
やっと工事再開の決まったある日、舛屋伊兵衛は人柱となるためにその工事現場の川に飛び込んだのでした…宝暦4年9月22日のことだったといわれています。
伊兵衛の墓は郷里のここではなく、遺体の漂着した大藪村(現岐阜県安八郡輪之内町)の円楽寺(地図はこちら powered by mapionbb)に今もあります。但し、命日が実際に亡くなった日ではなく、工事完成の宝暦5年3月29日になっているのは、他の自害した薩摩藩士の墓と一緒ですね…幕府をはばかった物という説が有力です。
この話が後世にはいろいろと尾鰭背鰭をつけて世間に伝えられたようで、「雉も鳴かずばうたれまい」という民話の元になったともいわれております…。
本堂の前にあった水盤。
比較的新しい物のようだが、高木家の家紋である「丸に違い羽根」が刻まれている。
参道の階段の向かって右手に、何かお堂のような物が…と思ってよく見ると、木の洞穴が祠になっていたのだった(^^;)
※その辺りをクリックすると拡大写真
(2)おもしろ看板?他
「猪・鹿捕獲用のくくり罠有ります」
…一杯出るんでしょうねぇ…ということは畑の被害結構すごいということか。
ちなみに上石津町は特に鹿被害が酷いらしい(上石津郷土資料館職員さん談)
どこもここも「三輪」さん
島津豊久を助けた庄屋は「三輪」という苗字でしたが、現在上石津町の住民の多くが「三輪」さん。実は、庄屋の三輪さんの末裔が誰かは不詳なんだそうです…。
「子供・美人多し スピード落せ!」
…ははははは…冗談きついっすよヾ(--;)
豊久墓所最寄りバス停「上多良」 ※地図ではこちら powered by mapionbb
車じゃない方はこちらにお世話になると思いますが、本数がかなり少ないです(左写真クリックすると時刻表表示)。事前に計画をよくねって下さいませ。
右は、その上にあった注意書き。関ヶ原は豪雪で有名ですが、この辺も雪が積もるとバスの経路がかなり東の国道に移ってしまうようだ…。
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