関ヶ原(島津関連超限定)>ロバスで行くはずだった上石津 その1

2009年3月某日、関ヶ原に行ったついで(ついでかよ)、下調べをしているときに、ある話を見てどうしても行きたくなり、急遽行くことにしました。

「ある話」とは「島津豊久の本当のお墓は上石津町にある」という話。
島津家に残る史料では「豊久は関ヶ原で消息不明」「烏頭坂で戦死」…など、
 豊久は関ヶ原で戦死したが、その死に様・遺体などの消息は不明
ということなのだが…。詳しくはこちら

果たして真実は?

ということでやってきました。

草津〜 _(。_゜)/

…JR西日本琵琶湖線(東海道本線)草津駅でーす ( ゚∀゚)アヒャヒャ

…実は、電車乗り遅れてしまった(T-T)
というわけで、関ヶ原方面に乗り継ぐ長浜行き新快速に乗れず、後から来た草津止まり新快速に乗り、ここで放置される…。
  草津良いとーこ 一度ーはおいで(違)
…駅と周囲のショッピングセンターは空中通路で結ばれている、実に今風の駅です。都会。滋賀県なのに
でも、妙に和風のしつらいになっているのは、この草津は東海道・中山道の宿場町だったからです。※右側の写真をクリックすると石碑が見えます。

都会のヾ(--;)草津駅で適当におやつを買って…
おいなりさん。特急停まらないのに駅弁売ってる草津駅。※クリックすると中味拝見。
ちなみに作っているのは南洋軒。これ以外の種類の駅弁は、事前予約が必要です。売っているのは駅改札前の売店のみで、改札を出る必要があります。

うばがもち。
草津といえばこれ。戦国時代の哀しい伝説がある。
しかもおいしい。草津でこれ買わなきゃもぐり。
赤○と似てると言うつっこみはなしヾ(--;)

ちなみに1個は親指の先ほどの大きさ(直径2cmぐらい)です。

後からやってきた長浜行き新快速に乗り、米原乗り換えでやっと関ヶ原駅に到着。
しかし、駅を降りてバス停に行き、大変な事実を知ることとなる…
上石津町行きのバスが2時間後にしかない(○。○)
…やむを得ず、タクシーに乗って上石津町に向かうことに。関ヶ原駅から上石津郷土資料館までタクシー代¥3850(…)こんなにタクシー代払ったのは10年ぶりぐらいかも知れない…。

ようやく上石津町に着いたときには、財布がすっかり軽く…(T-T)

上石津郷土資料館
これは裏側から撮った写真です

以前は「岐阜県養老郡上石津町」でしたが、2006年に大垣市と合併し「大垣市上石津町」となりました。
なので、この資料館も今は大垣市立になってます。

新しい建物なのか、非常に綺麗でした。



何しろ平日一人で来るような変人(=わたし)は非常に珍しいらしく(当たり前か)島津豊久以外でもいろんな事を教えてもらいました。感謝。
個人的な感想ですが、もうちょっと展示の仕方を工夫されると面白いんじゃないかなあ、と感じました。豊久以外でもいろいろ裏歴史に噛んでるところのようなのでヾ(^^;)

面白そうなお話を少し紹介
(1)明智光秀はこの上石津の出身なんだよ!(な、なんだってー)ヾ(--;)
一部の明智氏の系図では、光秀はこの上石津町の時(とき)という集落にいた親族から養子に入ったという説があるそうです。

残念ですが、上石津町時はここから更に奥地になるため、時間の関係でいけませんでした。
※地図はこちら powered by mapionbb

※上記系図解説(上石津郷土資料館パネル参照)

 明智光秀は享禄元年(1528年)8月17日、石津郡多羅(多良)にて誕生。或いは明智城で産まれたとも。多羅は進士家の居城で、光秀の母は進士(長江)信連の娘で名は美佐保という。伝えでは、実は光秀は妹婿・進士(山岸)信周(信連の息子)の次男で実母は明智光綱の妹である。光綱は家督継承して結婚し、八年の歳月が過ぎたが元来病身のため40歳になっても子供に恵まれない。そのため、光綱の父・光継の意向により光秀が養子に迎えられた。しかし幼少のため叔父・明智光安(宗寂)が後見した。弘治2年(1556年)9月に明智城が落城すると浪人となり、足利義昭に仕え、のち織田信長に仕えた。天正10年(1582年)6月15日に伏見小栗栖で殺された。享年55歳。

…明智光秀に関しては詳しくないので、判断は御覧の皆様にお任せしたいと思います…。

(2)上石津のお殿様は「八つ墓村」状態ヾ(--;)
現在上石津郷土資料館が建っている場所は、実は江戸時代、この上石津一帯を治めていた旗本(交代寄合)・高木氏の館が建っていた場所です。

残念ながら最初建っていた建物はほとんど残っていません。

現在は、ここから離れた場所に建てられた下屋敷にあった長屋門(嘉永5年(1856年)再建)、主屋(明治27年(1896年)に再建)が移築されて残されています。

中の状態が大変悪いと言うことで、現在は非公開でした。残念。


高木氏は元々美濃の国人の一人でしたが、その後、斉藤道三の配下となり、後に織田信長の家臣となります。信長の死後は次男・信雄に仕えますがこれが運の尽き。信雄が豊臣秀吉に反抗し伊勢国からの転封に抵抗すると、直ちに改易されてしまい、高木氏も浪人になってしまいます。その後、親戚で甲斐国領主となった加藤光泰のもとに身を寄せますが、文禄4年(1595年)、徳川家康に召し抱えられたことで再び運が開けます。慶長5年(1600年)に関ヶ原の合戦で東軍が勝利するとこの上石津の領主に任命されるのです。任命された理由は上石津郷土資料館の職員の方の説明によると
「高木氏が徳川家臣の中で貴重な一向宗徒だったから」_(。_゜)/
…木曽3川の流域に近いこの場所は、長島(現在の三重県桑名市)などの影響を受けて一向宗の影響が強く、住民のほとんどが一向宗徒。上石津の地は伊勢街道の宿場町という重要地点であるにもかかわらず、任命できそうな家臣がいない。…そこで、一向宗徒であった高木氏に白羽の矢が立ったようなのです。しかし、徳川家に召し抱えられたときわずか1000石だった高木氏を大名にするのは無理がありました。そこで本家を2300石、分家2家にそれぞれ1000石、合計4300石の交代寄合として入封させたというのです。
高木氏は上石津を見渡せる高台に3家それぞれの屋敷を建てて明治維新までこの地を支配し、3家交代で参勤交代も行っていました。…高台の上に本家も分家も屋敷があるというのが「八つ墓村」状態ヾ(--;)

この高台、実は元々「ある重要な場所」だったらしいのですが、それは後述。

高木氏もう一つの遺構・東高木家の倉

先ほどの長屋門と主屋が本家高木家(西高木家)のもので、そのすぐ隣にあるこの倉が分家の一つ・東高木家の屋敷の唯一の遺構です。文政年間(1818〜1829年)に建てられた物とされます。

場所は上石津郷土資料館のちょうど東向かい。

ちなみに、高木氏は寛永元年(1624年)から国役普請奉行に代々任命されたことから、後にこの地域一帯の水行奉行ともなりました。そのため、後にあの宝暦治水の時には鹿児島藩の監視役となりました。…つまり「豊久の墓」の外にも二重に島津氏とは因縁のある土地なのです>上石津
上石津郷土資料館の職員の方が「高木家の(宝暦)当時の日誌に、高木家の家臣が切腹した話は出てくるけど、平田靭負など島津氏側の切腹者の記録はないから、平田が難工事の責任を負って自殺したというのは嘘だ」と言う内容のことを力説してはりましたが…まあねえ、気持ちは分かりますけど。でも切腹者の情報を監視役の旗本に漏らすかなあと思うのですが。

ところで。
先述したように上石津郷土資料館のあった高木家陣屋は「ある重要な場所」を再利用して建てた物なのです。
    
…まるでお城のようだと思いませんか?
というか、実際ここは高木氏の前の領主・関一政が築いた「多良城」の跡地なのです。野面積みの石垣が壮大です。というかこんな所にこんな物が残っているとは思いも寄りませんでした(失礼)
左から3枚目、5枚目の写真に写っている林の辺りが高木家のもう一つの分家・北高木家の屋敷があったところといわれています。

なお、右から2枚目の写真に写っている石碑は前岐阜県知事・梶原拓氏揮毫による物ですが「美の泉陣屋」と書かれています。こういう別名もあったようです。


…上石津郷土資料館で、かなり「豊久の墓」の情報を得ることもできましたので、地元の史料が伝える「豊久・謎の逃亡ルート」をたどってみようと思います。

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