関ヶ原(島津関連超限定)>ロバスで行くはずだった上石津 その4

※このページは「島津豊久の墓」に関するばんない独自の考察です。なので、見解や結論も現在通説とされている物とは少々異なります。上石津町その他諸団体とは関係ありません


この上石津町に残る「島津豊久の墓」には様々な謎があります。
現在、この墓が「豊久の墓」とされるきっかけとなった諸史料を紹介しつつ、その謎を考えてみたいと思います。

史料其の壱
三輪内助の子孫・三輪孫大夫が小林正祐の子孫・小林次郎左衛門に送った覚え書き

(以下、小冊子などを元に訳)


一.慶長五年九月当地において島津様御次男様が御落命遊ばされたとき、私の先祖の三輪内助入道一斎という80歳あまりの老人が御遺骸を葬り、御廟と御位牌とを大切にしてお仕えした。もし将来何かお尋ねがあれば有るがままを申し上げるよう子孫に申し伝えた。又このことを末永く子孫に伝えるよう申し残した。
一.御廟所には椿が一本、今も生えています。周囲は6尺、高さは7尺1○○(2字欠字)ほどの古木で、「島津塚」と伝えております。
一.御骨壺は2つありました。
一.「嶋光院殿忠道源津大居士神儀」という御位牌があります。年号は慶長五庚子九月十五日と片脇に書いてあります。
一.元文三年三月十三日の夜、孫大夫の夢の中で、洞家(=曹洞宗の寺院のこと)の寺院を建て、骨壺2つは国元に送れ、というお告げがあり、高輪山瑠璃光寺を再建し、朝夕お位牌にお経を唱えて今に至っています。
一.先年より折節お告げがありましたが、申し上げる許可が下りず今まで延び延びになっておりました。
右はこの度のお尋ねの件について、覚えていた分を書き付けて申し上げる次第でございます。以上。

                   高木監物知行所
                    美濃国石津郡多良樫原村
                            三輪孫大夫

寛政元年酉
 閏六月
  小林次郎左衛門殿

史料其の弐
三輪内助の子孫・三輪孫大夫が小林正祐の子孫・小林次郎左衛門に送った覚え書きの添え書き
(以下、小冊子などを元に訳)

指出申書付の事
当村領内でで関ヶ原合戦のおりの事、薩摩大守公(=たぶん島津義弘のこと)がお引き退きのみぎり、あなた様のご先祖が岐阜城をお引き退き当村をお通り御本国へ帰られる時、右島津公をご案内しあなた様の御本国である多賀へお連れされたことは間違いない事実でございます。その時、島津公の御公達が当村内で討ち死になさられ、そのため追っ手の人も引き上げられました。
右記のご縁がありまして、時々御先代から(当村に)ご参詣があり我らの所にお泊まりに為られているのも事実でございます。時折、御出家の方々が同道されて瑠璃光寺で法事をされることもあり、その時(当家が)お世話をする事もよくご存じの通りでございます。 右の御墓地(=豊久の墓のこと)を世話させていただいているのも私たち○○(2字欠字)に他にございませんことは明らかでございます。あなた様がお引き退きに為られる際、高宮(=高宮村、現・滋賀県多賀町高宮)河原(現在の場所未詳)にてその働きにより兵糧を下されたことについての書類、
付け加えて、薩摩太守公が下されたと伝えられている種子島渡りの鉄砲なども
あります。及び○○○○○(5字欠字)の話なども念書に書いておりますとおりでございます。
別紙 御墓所儀並びに御法号等書き記した物
                 美濃国石津郡多良郷
                  高木監物知行所
                          樫原村
                         三輪孫大夫(印)

寛政元年巳酉国六月
        江州高宮郷
           小林治部左衛門殿

史料其の壱、其の弐はおそらくワンセットの書状と思われます。これらの書状の一番の問題点は、賢明な皆様なら一目で分かったと思われますが、書かれた年度です。「寛政元年」(1789年)は関ヶ原から190年近く後の時代です。
その他にもいくつか問題があり、おそらく豊久とおぼしき人物を「島津家御次男様」と書いています。「義弘の次男」といいたいのでしょうが、実際は義弘の弟の長男なので全く異なります。ちなみに同一人物とおぼしき武将を史料其の弐では「島津家御公達様」と曖昧な書き方にしています。

さて、話は戻りますが、関ヶ原の合戦から190年も経った寛政になって、なぜ急に三輪孫大夫は小林家に上記のような書状を送ったのでしょうか?
それに関しては孫大夫自筆の日記が上石津町に残っていました。

史料其の参
「一件覚日記」
(以下、小冊子などを元に訳)

<表紙>
酉壬六月より
        三輪孫大夫

<本文>
    日  記

一.壬六月七日、土屋春民(=西高木家の侍医)が手紙をよこし「九日夕方にちょっと来てくれないか」と話があった。
一.夕方に行ってみると、「(近江国)高宮の小林次郎左衛門に嫁いだ(春民の)姉・佐渡があなたに聞きたいことがあると言うことで、佐渡殿のお話によると「先年の関ヶ原の陣のことについて何か資料が有れば見せてくれないか」とのお願いであった。「何故そんなことを」と尋ねてみれば「薩摩の方から質問があったから」とのこと、そこで一通りのことを書き付けて十三日にお渡しした。
一.七月二十日、小林七郎左衛門が当家にやってきて、書き付けをお願いされたので渡した。
一.八月九日、勘左衛門(三輪家の下男か?詳細未詳)が高宮に行って一通り(小林家の)御意を得て帰ってきた。その時豊臣秀頼公の短冊を一筆もらってきた。十三日に帰ってきた。
一.その後礼状が来た。
一.戌正月十一日、京飛脚を使って書状を送った。
一.二月一日に返事が来た。
一.同八日に勘左衛門が高宮に行き、去る九月に薩摩に差し上げた書き付けを書写した。また三月までに拙宅にお尋ねがあるので心得ておくようにとおっしゃられた。(勘左衛門は)十日に帰ってきた。

寛政元年になって、突然高宮の小林家の末裔から三輪家に連絡が来たことが史料其の壱・其の弐誕生のきっかけとなったことは、上記史料其の参で明らかです。そして、小林家が三輪家に連絡を取ることが可能となったのは、小林家の嫁が上石津村領主であった西高木家の侍医・土屋家の出身であったという偶然による物のようです。
ちなみに、上石津町と近江国多賀は島津軍も越えていったという旧道(「保月越え」、「島津越え」とも言われる)を通じて交流があり、もともとの方言もいわゆる東海方言ではなくて関西方面の方言の影響があるという話を上石津町郷土資料館で伺いました。

また上記の資料から

という状況がわかります。

以上の史料から
寛政時点では、上石津の三輪家に「島津家の由緒ある武将を助け、その人が死んだ後菩提を弔った」という伝承があったことは、認めても良いのではないかと思います。

史料其の四
三輪孫大夫が豊久の菩提寺・瑠璃光寺の住職だった玄透和尚に寛政5年(1793年)に問い合わせを受けて差し出した覚え書き
(以下小冊子などを元に訳)

島津中務様(=島津豊久)の御廟についての由来についてお尋ねがありましたので申し上げます。
慶長年間、関ヶ原の合戦の時島津兵庫頭様(=島津義弘)
同国多良というところにおいでになられた時、山村から近江国多賀
の庄へおいでなさられた故、その道は今は「島津越え」という
場所の名前になっています。その間、御次男中務様には
戦場に於かれてお討ち死になさられるご覚悟で戦場に赴かれ
戦が静まった後多良にお越しに為られました。その時、私の8代前の先祖
三輪内助入道一斎と申す者、途中から御意により
御家臣の川口運右衛門とこの山にご案内差し上げた
のですが、白拍子谷という場所に両人(=三輪と川口)お供したところ
俄にこの場所でお亡くなりになってしまわれました。両人とも前後不覚となり
言葉もありませんでした。そして、ご遺骸を正覚山薬師寺にお運びし
南拝殿と言うところで荼毘にふし、薬師寺の住職であった春山長老に
焼香していただきました。お骨は二つに分けて納めたところ、右記の運右
衛門殿の申しつけで「我らが本国にお供させてもらうので」と
申し置かれたのですが、その後何の音沙汰もありません。そのため
お骨は御廟に納めさせていただきました。すなわち貴寺の山内の南に只今
あるお墓です。右の通り、拙者代々先祖から
申し伝えられてきました。この通り相違ございません。以上
               三輪孫大夫
 寛政五年五月
瑠璃光寺玄透和尚様

上記の文書より5年後の物ですが、ほぼ内容は同じです。

このあと、天明七年(1787年)に瑠璃光寺の鐘が鋳直されたのですが(これが現在の瑠璃光寺の梵鐘らしい)、そこには
「旧梵鐘(の名文)に曰く、慶長年間に正覚山薬師寺がここにあったときに島津中啓公(=島津豊久)が当地でなくなり、ここに葬った…」
とあり、「豊久の墓」の伝承が天明年間には固定していたことが分かります。


史料其の五
小林家に伝来した、島津義弘からもらったと伝えられる軍忠状
※クリックで拡大します
(以下、小冊子などを元に訳)

今度山路を案内のほう
月むらにてのお働き・高宮河
原にての寄宿・兵糧を下さったこと
大変神妙に感じております。なお、当座
のしるしに持参していた渡り(=渡来品の?か)の筒鉄砲を
差し上げます。治国へ上り、仕えたいと
申し出てくれればその通りにします。

              薩守
                忠平(花押)
九月十五日夕
             小林新六郎殿

史料其の四は、史料其の弐と連関した内容の様に思われます。年度は書いてませんが、「9月15日」は一応関ヶ原合戦のあった日なので日時の観点から見るとおかしくないと思われます。しかし、この文書にも問題がありました。問題は署名で、この当時の義弘の出家名である「惟新」でもなく「義弘」でもなく「忠平」と書いています。”忠平”は天正14年以前の名乗りです。又、その頭に書いている「薩守」というのも問題です。というのも、義弘は薩摩守になったことは一度もないのです。もしかしたら花押も問題があるのかも知れませんが、義弘の花押については余り知識がないので、取りあえず保留にしておきます。
義弘の書状としては、ネットでも見られる物では宮崎県立図書館所蔵(旧伊勢家所蔵)の自筆文書がありますが、ちょっと筆跡も違うように思われます。

但し、先掲の史料其の参で「鹿児島藩から小林家に問い合わせがあった」ことから伺えるように、寛政頃には「関ヶ原の合戦の時に小林という侍に世話になった」事は鹿児島藩側でも認識していたと思われます(但し、「薩藩旧記雑録後編」所収の参戦者達の覚え書きには出てこないようなんですが…)。

以上から、おそらく史料其の四は、実際に島津義弘が小林正祐に送った書状があったのを元にして後に書かれた写しではないかと考えられます。「忠平」という過去の名前を使ったのは、実際本当の素性を隠す(でも分かる人には分かる)為と思われます。「薩守」(=薩摩守)は江戸時代以降鹿児島藩主が任官した官名であり、この書類が後世の作成であることを証明する物ではないかと考えられます。

ちなみに、これらの話の鹿児島藩側史料の確実な初出は「倭文麻環(しずのおだまき、島津重豪の命で国学者・白尾斎蔵(号「国柱」)が書いた鹿児島藩関連の説話・伝承集。森鴎外が『ヰタセクスアリス』でネタにした本とは同名の別物)で、更に時代は文化9年(1812年)まで下がるようです…。

次に豊久の位牌など他の伝承史料も検討してみます。
上石津5へ続く。

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