今熊野観音寺の島津義久墓(本編)
遂に島津義久の墓らしき物の前に到着。
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写真で見ると大きさが伝わりにくいが、高さ2mはあり、見上げるような五輪塔である。
実はこの墓は本当にお骨が入っている物ではなく、生前に長命を記念して作る「逆修墓」と言われる物。
さすが今熊野観音寺の霊験はあらたかで、島津義久はこの墓を建立した後更に13年も生き、当時としては化け物的な長命を全うし79歳で没した。
しかし、その晩年といえば、長女・御平に先立たれ、次女・新城と孫・島津忠仍親子の家督相続争いへの参戦、三女・亀寿と後継者・島津忠恒(家久)の不仲…など娘達の不幸を見つめ、最後まで反対していた琉球出兵はその婿・忠恒と弟・義弘に押し切られるなど、決して幸せといえる物ではなかった。
お墓を向かって右より紹介
(1)小さな五輪塔で、高さ50cmぐらい。梵字以外にめぼしい銘文はない。
(2)(1)よりやや高いが小振りな五輪塔。頭の部分が擬宝珠型ではなく花形なのが特徴。胴の部分に「薩эZ」台の部分に「春家」と掘られている。
※「有栄」つまり、山田有栄ではないか、という指摘がありました。こちら
(3)島津義久の逆修墓。高さは2mぐらい、横幅も大きく80cm位はあるだろうか。正面には梵字が掘られており、台部の向かって右側面に「藤原氏嶋津義久○(判読不能)」と掘られ、正面に
右「○○(損壊により欠字)彭○(損壊により判読不能)逆修」
中「(梵字)」
左「慶長三年○○(損壊により判読不能)月」
と掘られている。
(4)(2)と同規模・同形式の五輪塔。胴部に横書きで「○○門衛○○」、台部に(右)「慶長三年戊戌」(中)「宗参覚阿逆修」(左)「卯月下旬吉日」と掘られている。
※平田増宗という指摘あり、こちら
(5)(1)と同規模、同形式の五輪塔。
おまけ
ここは一般にも分譲されている墓地のようだが、よく見ると古そうな墓が多い。
島津義久墓の近くにあった多宝塔型の墓3基
平安末期の摂関である藤原忠通とその息子である藤原(九条)忠実、慈円の墓と言われているらしい。
他にも奥の方に由緒ありげな宝匡印塔などがあった。