島津忠良女(肝付兼続室、御南)
永正8(1511)〜天正9(1581)年辛巳9月3日<享年71歳>
<略歴>
島津家再興に尽力した島津忠良の長女。没年から逆算すると次女の島津御隅と同年の生まれとなり、双子の姉だったと推測される。長じて「御南(おみなみ)」と名乗った(「旧記雑録」家わけ1新編伴姓肝属氏系譜268「愛甲諸兵衛上書草案」など)が、語源不明。
大隅の有力戦国大名・肝付兼続に嫁ぎ、男子2人(?)女子3人を産み薩隅の安定に貢献したが、後に島津氏と肝付氏が対立するとその板挟みとなり、辛苦を舐め尽くした。その後肝付氏は島津氏の配下となったが、実子・良兼に男子が無く、肝付氏の後継者問題を差配したため、実質的に肝付本家の衰亡を招いたとも言われる。見ようによって賢女か悪女か見解が別れる人物であろう。
父・島津忠良の死に際して息子・肝付良兼と共に菩提寺を建立するなど、父親とのつながりが非常に強い女性であったと思われる。
<年譜>
年度 (日本歴) |
年度 (西暦) |
年齢 | 出来事 | 出典 |
永正8 | 1511 | 1 | 伊作城にて誕生。 父・島津忠良、母・島津重久女(御東) |
「旧記雑録」諸氏系図3忠興「忠良」 「旧記雑録」家分け2肝付氏「新編伴姓肝属氏系譜」15 |
大永6,7頃 | 1526〜 1527 |
16〜 17 |
大隅の有力戦国大名・肝付兼続と結婚 | 「旧記雑録」家わけ2肝付氏「新編伴姓肝属氏系譜」15 |
(年度不明) | 長女・禰寝重長室出産 | 「旧記雑録」家わけ2肝付氏「新編伴姓肝属氏系譜」15 | ||
天文4乙未 | 1535 | 25 | 長男・肝付良兼出産 | 「旧記雑録」家わけ2肝付氏「新編伴姓肝属氏系譜」15 |
(年度不明) | 次男・肝付兼長出産?※ | 「旧記雑録」家わけ2肝付氏「新編伴姓肝属氏系譜」15 | ||
(年度不明) | 次女・肝付刑部少輔兼○入道江月室出産 | 「旧記雑録」家わけ2肝付氏「新編伴姓肝属氏系譜」15 | ||
(年度不明) | 三女・頴娃兼有室出産 | 「旧記雑録」家わけ2肝付氏「新編伴姓肝属氏系譜」15 | ||
(年度不明) | 肝付兼長夭折(享年12才) | 「旧記雑録」家わけ2肝付氏「新編伴姓肝属氏系譜」15 | ||
天文21 12月末〜 天文22 1月初旬 |
1552〜 1553 |
42 〜 43 |
夫・肝付兼続と共に実家のある加世田を訪問、正月も父・島津忠良らと共に過ごす | 「旧記雑録」家わけ2肝付氏「新編伴姓肝属氏系譜」14「瑞光記」 |
天文24乙卯 2月18日 |
1555 | 45 | 手製の戸帳を高山今留村の道隆寺に寄付する | 「旧記雑録」家わけ2肝付氏「新編伴姓肝属氏系譜」14 |
永禄元戊午 | 1558 | 48 | 肝付兼続の五男・兼亮誕生(母側室某氏、四男兼樹と同母) | 「旧記雑録」家わけ2肝付氏「新編伴姓肝属氏系譜」15 |
永禄4辛酉 正月〜春頃 |
1561 | 51 | 夫・肝付兼続が島津貴久と敵対を宣言 宴席で島津氏家老・伊集院忠朗が料理のことをなじったというつまらないことが原因と伝わる |
「旧記雑録」家わけ2肝付氏「新編伴姓肝属氏系譜」14「島津世家」「島津世禄記」その他出典多数 |
永禄4春頃 | 父・島津忠良が御南を実家に連れ帰るため迎えに来るが、拒否する | 「旧記雑録」家わけ2肝付氏「新編伴姓肝属氏系譜」14 | ||
この時忠良、御南に「もるよともしらでたのまばこのもとに振てはさそう露よしぐれよ」と言う別れの和歌を送る | 「日新菩薩記」 | |||
永禄4 | 夫・肝付兼続の七男・兼道(兼護)誕生(母は肝付兼好女) | 「旧記雑録」家わけ2肝付氏「新編伴姓肝属氏系譜」19 | ||
永禄6 | 1563 | 53 | 肝付兼道を養子とする | 「旧記雑録」家わけ2肝付氏「新編伴姓肝属氏系譜」19 |
永禄9丙寅 11月15日 |
1566 | 56 | 夫・肝付兼続が志布志にて死去(享年56歳) | 「旧記雑録」家わけ2肝付氏「新編伴姓肝属氏系譜」14 |
元亀元 8月 |
1570 | 60 | 父・島津忠良の3回忌を記念して息子・肝付良兼と連名で菩提寺・池山日新院を前田村に建立する | 「旧記雑録」家わけ2肝付氏「新編伴姓肝属氏系譜」15 |
元亀2 7月31日 |
1571 | 61 | 長男・肝付良兼死去(享年37歳・33歳説も) | 「旧記雑録」家わけ2肝付氏「新編伴姓肝属氏系譜」15 |
元亀2頃 | 肝付兼続の五男・兼亮と孫娘(肝付良兼次女)を結婚させて、良兼の後継者とする | 「旧記雑録」家わけ2肝付氏「新編伴姓肝属氏系譜」15 | ||
天正2 | 1574 | 64 | 島津家に降伏し、1万石を持って存続する | 「旧記雑録」家わけ2肝付氏「新編伴姓肝属氏系譜」15 |
天正2頃 | この頃から孫娘(肝付良兼次女)と不和であることを理由として、兼亮を嫌うようになる | 「旧記雑録」家わけ2肝付氏「新編伴姓肝属氏系譜」14 | ||
天正3 11月 |
1575 | 65 | 肝付兼亮が島津氏に敵対しようとしたため、家臣団と相談し孫娘とは離縁の上放逐、養子の兼道(兼護)を孫娘と再婚させて当主とする | 「旧記雑録」家わけ2肝付氏「新編伴姓肝属氏系譜」15 |
天正5 | 1577 | 67 | 肝付兼道に対して高山一邑だけ安堵される | 「旧記雑録」家わけ2肝付氏「新編伴姓肝属氏系譜」19 |
天正8 | 1580 | 70 | 肝付兼道が薩摩国阿多12町に転封される この頃、兼道が孫娘(肝付良兼次女)と不和のため離婚し、税所篤弘女と再婚する |
「旧記雑録」家わけ2肝付氏「新編伴姓肝属氏系譜」19 |
天正9 9月3日辰刻 |
1581 | 71 | 死去。法号「月庭桂秋大姉」 葬儀は盛光寺で行われ、遺骨は日新院と田代宝光寺に納められた |
「旧記雑録」諸氏系図3忠興「忠良」 「旧記雑録」家わけ2肝付氏「新編伴姓肝属氏系譜」15 |
姶良含粒寺に葬られたという説もあり | 「旧記雑録」後編1−1237 |
※「旧記雑録」家わけ2肝付氏「新編伴姓肝属氏系譜」15 良兼の傍注では御南は男子1人女子3人を産んだとあり、この注記が正しいとすると兼長は御南出生ではない。