税所篤弘女(肝付兼道(兼護)後室)

元亀元(1570)年〜明暦4(1658)年6月16日<享年89歳>

<略歴>
島津氏家臣・税所篤弘の長女(「新編伴姓肝属氏系譜」兼幸)で、前妻・肝付良兼女と不和のため離婚した肝付兼道(兼護)の後妻となる。兼道との間には一子・兼幸をもうけたものの、夫・兼道は関ヶ原の合戦で戦死、一人息子の兼幸も江戸から帰国途中に事故死し、肝付本宗家は断絶、彼女も天涯孤独の身の上となる。
その後、島津家久の命により家久三女(菊姫、母は相良長辰女)の後見役となり、その功績によって養子を迎え肝付氏を再興した。ただし、その養子に肝付氏の縁者ではなく、自分の実家の縁者を据えたことには賛否両論があろう。
その後も給付領を上納されそうになるなどたびたび苦難に遭っているが、そのたびに抵抗し給付を確保している。島津家久(忠恒)鍾愛の娘・菊姫の後見であったという役割が考慮されたものと思われる。肝付氏と後見した菊姫婚家・日置島津家の栄枯盛衰を見た後、長命を全うした。


<年譜>
年度
(日本歴)
年度
(西暦)
年齢 出来事 出典
元亀元 1570 誕生 父・税所宮内少輔篤弘 母・新納康久女 「新編伴姓肝属氏系譜」兼幸
天正8 1580 11 肝付兼道、肝付良兼女と離婚
この後、兼道と再婚か?
「新編伴姓肝属氏系譜」兼道
慶長元 1596 27 兼道の長男・伴十郎(後の肝付兼幸)を産む 「新編伴姓肝属氏系譜」兼幸
慶長5
9月15日
1600 31 関ヶ原の合戦により、夫・兼道戦死(享年40歳) 「新編伴姓肝属氏系譜」兼道
慶長15
12月11日
1610 41 長男・兼幸が琉球国王を江戸に連行した島津家久に同行した際、帰国途中の筑前国愛島で暴風雨に遭い溺死(享年19歳) 「新編伴姓肝属氏系譜」兼幸、439「島津家久書状」
慶長19
3月
1614 45 家老・比志島国貞の命により、島津久慶妻となった島津家久三女(菊姫、母は相良長泰女)の局役となる 「新編伴姓肝属氏系譜」兼幸
元和2 1616 47 菊姫局役を依願して辞そうとするが菊姫幼少につき入れられず
島津家久より恩賞として毎年20石を賜る
「新編伴姓肝属氏系譜」兼幸
(年度不明) 養子・肝付兼康(母は合志伊勢守女)を迎え、肝付本宗家を再興
兼康の父・新納忠秀と税所篤弘女の母が兄弟という間柄であった
「新編伴姓肝属氏系譜」兼康
「諸氏系譜」新納氏 兼康
寛永9 1632 63 家老・渋谷重政に訴えて減額させられた給料のうち10石を復活させる 「新編伴姓肝属氏系譜」兼幸
寛永15 1638 69 家久の上地令に対して、家老・島津久元と伊勢貞昌に訴えて旧例通りの給付を確保する 「新編伴姓肝属氏系譜」兼幸
明暦4
6月16日
1658 89 死去 法号「花傳玉眞大姉」 「新編伴姓肝属氏系譜」兼幸

「肝属氏系図文書寫」「新編伴姓肝属氏系譜」では「父税所助十郎」とするものもある。

「新編伴姓肝属氏系譜」兼幸の補注によると「疑在元和六年四分一上地時也」とあり、給米20石を元和6年に一部召し上げられた可能性がある。

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