島津久定女(伊集院忠棟後室、吉利殿)


?〜慶長7(1602)年8月17日<享年不明>

<略歴>
薩州家分家である島津久定の娘で、島津(後「吉利」と改姓)忠澄の妹。伊集院忠棟の妻(おそらく後妻)となり大勢の子供にも恵まれる。が、慶長4年に夫が島津忠恒に謀反の疑いで殺されて、運命は一変。島津本家に対する不満から反旗を翻して「庄内の乱」を起こす。この時、彼女は京の東福寺に退避していたが、加藤清正や黒田如水らに書状を送って息子・伊集院忠真への加勢を要請しており、実際の首謀者は彼女だったように思える。乱の終了後も徳川家康に直訴するなどし、島津義弘にさえ警戒されていた(「旧記雑録」後編3−1107)。慶長7年、島津忠恒の上洛の際に幽閉先の阿多で殺害された(自殺説もあり)。
「庄内陣記」には、島津忠恒の使者・白坂篤国(久定女の妹の夫、よって義理の弟)に対して「幸侃罪有りて御誅罰の上は、我らも同罪に仰せ付らるべし」といい、篤国に秘蔵の”氏房の刀”を渡して介錯するよう迫ったとある。同じく「庄内陣記」には「女ながら剛胆にして」とも書かれており、かなり気の強い女性であったらしい。
また「旧記雑録」拾遺1−88では、「幸侃内方(=島津久定女)へ赤キ小袖借ニ遣候得共無之由候、一向宗之者ハかささる者か(以下略)」と島津義久に非難されており、彼女は島津家でご禁制の一向宗の信者だったと見られる。しかも当主の義久に知られていることから見て、彼女が一向宗信者であることは”公然の秘密”だったと思われる。
論文などでは、父・島津久定が吉利に住んだことから「吉利氏女」、或いは夫から「伊集院忠棟室」として書かれることの方が多い。


<年譜>
年度
(日本歴)
年度
(西暦)
年齢 出来事 出典
(年度不明
天文18〜弘治3以前)
1549〜
1557
誕生 父・島津久定 母・不明
父方の祖母は島津運久(忠幸)の娘
「諸氏系譜」吉利氏 久定長女
(年度不明) 伊集院忠棟と結婚 「諸氏系譜」伊集院氏 忠棟
「諸氏系譜」吉利氏 久定長女
「庄内陣記」添付系図
(年度不明) 長女(後 本田公親室)出産 「庄内陣記」添付系図
天正4 1576 長男・伊集院忠真出産 「諸氏系譜」伊集院氏
「庄内陣記」添付系図
天正10 1582 次男・伊集院小伝次(諱不明)出産 「諸氏系譜」伊集院氏
「庄内陣記」添付系図
(年度不明) 次女(後 北郷三久室)出産 「庄内陣記」添付系図
天正13 1585 三男・三郎五郎(後・肝付兼三)出産 「諸氏系譜」伊集院氏
天正17 1589 四男・千次郎出産 「庄内陣記」添付系図
天正18頃 1590 三男・三郎五郎が故・肝付兼寛の養子となり加治木肝付家の当主となる 「旧記雑録」家わけ2肝付氏「肝付氏系図」「肝付世譜雑録」6
(年度不明) 五男・千寿(後 頴娃久虎養子→離縁)出産 「庄内陣記」添付系図
(年度不明) 五男・千寿夭折(享年不明) 「庄内陣記」添付系図
文禄3
4月8日
夫・幸侃と共に室町(現京都市)の徳岡宗与邸に泊まる 「旧記雑録」後編2−1294
慶長元 1596 島津義久から近衛信尹に着せるために赤い小袖を借りたい旨所望されるが、断る 「旧記雑録」拾遺1−88
慶長4
3月9日
1599 夫・伊集院忠棟が島津忠恒によって斬殺される(享年59歳) 「諸氏系譜」伊集院氏
「庄内陣記」 その他出典多数
慶長4
3月上旬
伏見の伊集院屋敷を姑、息子(肝付兼三、伊集院千次郎)その他家臣を引き連れ退去、東福寺に移る 「庄内陣記」
慶長4
4月19日
伊集院忠真の進退について久定女が工作しているのを警戒するよう、島津義久が本田正親、比志島国貞に書状を送る 「比志島文書」238
慶長4
7月4日
この日までに北郷与右衛門尉を近衛信尹の元に度々使者として使わし、擁護を依頼する 「旧記雑録」後編3−782
慶長4
7月16日
徳川家康の調停により、久定女、伊集院忠真兄弟は関東の佐竹氏預かりとなることが決定する(実行されず) 「旧記雑録」後編4−784、807、943
慶長4
10月6日
息子達と共同で京都の方々の寺に「怨敵消散」の祈祷を依頼する 「旧記雑録」後編3−929
慶長4
10月25日
この頃江戸に行き、直接徳川家康に訴え出ようとしたらしいが島津義弘に阻止される 「薩藩先公貴翰」205
「庄内陣記」
慶長4
12月31日
この日までに鞍馬に移る 「旧記雑録」後編3−994
慶長5
5月10日以前
1600 この日までに大坂に移る 「旧記雑録」後編3−1107
慶長5
7月2日
このころまでに大坂城にいる徳川家康に直訴するが聞き届けられず 「旧記雑録」後編3−1117、1155
慶長5年
8月15日
島津義弘が久定女と息子3名(小伝次・三郎五郎・千次)の下向を許可する 「旧記雑録」後編3−1155
慶長5 徳川家康の調停により薩摩に引き上げる
但し所領の頴娃には入れず、阿多に幽閉される
「本藩人物志」国賊伝伊集院忠真
慶長7
8月17日
1602 島津忠恒の命により、阿多で暗殺される 「旧記雑録」諸氏系譜3吉利氏
島津忠恒に殺されるのを不服として自殺したともいう 「本藩人物志」国賊伝伊集院忠真
伊集院忠棟の母と共に阿多多宝寺にて自殺したという 「庄内陣記」添付系図
長男・忠真、島津忠恒に同行中に日向国野尻で忠恒の命により暗殺(享年27歳)
次男・小伝次、大隅国濱の市(現鹿児島県霧島市国分)にて暗殺(享年21歳)
三男・三郎五郎、四男・千次郎、谷山中村にて暗殺(三郎五郎享年18歳、千次郎享年14歳)
「庄内陣記」添付系図
「本藩人物志」国賊伝伊集院忠真
その他出典多数
法名「機窓妙鑑大姉」 「本藩人物志」吉利忠張

三男・肝付兼三の名前については「伊集院右衛門大夫忠棟入道幸侃ノ三男字中将後嗣トナリテ當家ヲ連続ス、元服シテ三郎五郎兼三ト号ス」(「肝付世譜雑録」六”兼三”)の記述から考えて、当初の字が「中将」或いは幼名が「中将」だった物か。

「庄内陣記」添付系図の忠棟五男注記によると「(頴娃)久虎無子、千寿ヲ養子トス、后久音生ル、故之ヲ複実父家」とあるが、「本藩人物誌」頴娃久虎、頴娃久音によれば、久虎が亡くなったのは天正15(1587)年、その時久音は5歳であり、矛盾する点がある。
ちなみに伊集院忠棟は頴娃久音の相続に猛烈に反対し、自分の息子を頴娃氏の後継者としようとしたが阻止されたために、それを逆恨みして島津義久に頴娃氏を讒言し減封させたという話が伝わっている。(「本藩人物誌」頴娃久音)

ちなみに、このために徳岡宗与は自分の家を明け渡す羽目になっている

ちなみに「旧記雑録」後編3−1155によると家康とは3回も面会したとあり、大名の一家老の正室としては別格の扱いであったことが伺える。

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