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関ヶ原(島津関連超限定)>ロバスで行くはずだった上石津 その2

(注)当ページは「島津豊久の逃走ルート?」のトレースを目標としており、実際の訪問順とは異なります。

美濃国烏頭坂(現・岐阜県大垣市上石津町牧田)

ここで、島津豊久は伯父・島津義弘を逃がすため、井伊直政を初めとする追撃軍に「捨てがまり」をかけ、戦死したと言われてます(ここまでの話は「ママチャリ関ヶ原」を参照下さい)

通説では。

しかし、地元に伝わる史料・伝説では、どうも豊久が死んだ場所はここではないようなのです。
上石津郷土資料館での展示・及びそこで入手しました小冊子『上石津における関ヶ原合戦と島津軍の背進』を元に、豊久の逃走ルートをたどります。

表伊勢街道と裏伊勢街道の分岐(現・牧田上野交差点)※地図はこちら powered by mapionbb

この辺りで、島津軍は度重なる「捨てがまり」を懸けつつ、激しい追撃の手を休めない東軍を攪乱するため、二手に分かれて逃げたとされます。

島津義弘を含む本体は表伊勢街道(手前を横に走る道)、もう一隊が裏伊勢街道(写真奥にまっすぐ延びる道)へ向かいました。
この裏伊勢街道に逃げた部隊が、重傷を負った豊久を抱えていたと地元の伝承では伝えております。

この裏伊勢街道を進むと、やがて正面に壁のような山が見えてきます。
  勝地峠です。※地図はこちら powered by mapionbb
 左写真:やや横方向(この辺り)から見た勝地峠
 右写真:トンネル正面(この辺り)から見た勝地峠
現在はこの山を貫く長いトンネル(上石津トンネル)が開通し、私も往復はこのトンネルの中を通りました。が、関ヶ原の合戦当時は当然そんなトンネルはあるわけもなく、島津軍も、そして追撃軍もこの勝地峠を越えていったとされます。
勝地峠は標高183mでそれほど高い山ではありませんが、何しろ写真を見て分かるように壁のように屹立しているため、当時でも大変な難所とされ、江戸時代でも積み荷を馬から人の背に積み替えて運んでいたと言われています。ここでさすがの東軍も追撃を中断し、生き残った島津軍は命拾いをしたといわれます。…最もあまりの難所なので、重傷を負った兵士は助からないと思われたのでしょう。
 ※現在の勝地峠に行かれた方のHPがあります。ご参照下さい。こちら

また、川上忠兄が最後の「捨てがまり」を決行し、井伊直政を打ち落としたのはここだったとも言われています。この時に死んだ島津軍の兵士の墓が近年まで上石津中学校近くにありましたが、グラウンド整備に伴い川西という場所の集合墓地に移されたと言うことです。※地図はこちら powered by mapionbb

やっとの事で追撃を振り切った豊久と島津軍の生き残りは、勝地峠を越えたところで、上石津の庄屋を勤める三輪内助入道なる85歳の老人に助けられます。
何とかして島津義弘の本隊との合流を計ろうとする豊久隊は三輪内助の案内で南進しようとしたようです。
  この砂利道が旧伊勢街道 ※右横の倉が、先述の東高木家蔵
豊久隊はおそらくこの旧道を通ったと思われますが、かなりきついので重傷を負った身にはつらかったと思われます。
  麓から見た多良城(後の高木家陣屋→現上石津郷土資料館) ※地図ではこの辺り powered by mapionbb
関ヶ原の合戦当時の多良城主は関一政。当初島津氏と同じ西軍に付いていましたが、途中で寝返り東軍になりました。庄屋・三輪内助が島津軍を助けてくれたのはその情報が入っていなかったからなのか?…残存史料では不明です。

大神神社 ※地図はこちら powered by mapionbb

小さな神社だが、社伝では「持統天皇の命により三輪高市麻呂により建立された」とされ、「延喜式」神名帳にも出ているという古い神社。
江戸時代にはこの地の領主であった交代寄合・高木家の保護を受けていたという。

たぶん豊久隊もこの神社を横目に見ながら逃走したのだろう…。でも残っている建物は当時の物じゃないみたい_(。_゜)/

 旧伊勢街道から現伊勢街道(国道365号)方面を見る。
流れている川は牧田川。この辺から見る光景は、関ヶ原の合戦の頃と余り変わらないかも知れない。

  八柱神社と本堂寺 ※地図はこちら powered by mapionbb
本堂寺は交代寄合・高木氏の菩提寺で曹洞宗…あれ、一向宗じゃなかったの?ヾ(^^;) 写真で見て分かるように、宝暦治水の時に人柱となった地元出身の商人・舛屋伊兵衛の慰霊碑があります。この話は長くなりそうなので別項にて。
八柱神社・本堂寺とも関ヶ原の合戦の時にはなかったと思われます、たぶん。
こちらのHPによると、本堂寺は貞享5年(1688年)に再興された物とのこと


道は更にアップダウンを繰り返しながら延々と続きます。
※この写真の場所は地図ではこちら powered by mapion

残存している史料で、この辺りの豊久の状況を伝えている物はありませんが、傷は相当深く、歩くのもおぼつかない状態だったのではと推測されます。

そして、この先の白拍子谷(しらべしたに)といわれるところで、他の将兵の足手まといになり、また三輪内助など地元民へ嫌疑が掛かることを恐れた豊久は、突然自害したと地元の史料は伝えます…。
※白拍子谷はこの辺りらしい。こちら powered by mapoinbb
ちなみに白拍子谷ですが、先述の参考史料に載っている写真などを見ると山道を通らなくてはいけないようなので行ってません済みませんヘタレで…

目の前での突然の展開に、三輪は非常に驚いたと思われますが、豊久の家臣・川口運右衛門の願いにより、その後、一切の処分を行います…。

ところが、その後の史料では川口運右衛門がどうなったのか全く不明で、また、国元から豊久の遺骨を迎える使いも来なかったというのです。また、正覚山薬師寺もその後の経緯は未詳ながら衰微してしまいます。
そこで、三輪内助の子孫である三輪孫大夫が元文3年(1738年)に夢告を受けて薬師寺の後裔として再建したのが高輪山瑠璃光寺といわれ、遺骨はその裏の林に葬り、そばに椿を植えたと史料は伝えています。

これが今に残る島津豊久の菩提寺と墓です。

上石津3へ続く

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