関ヶ原(島津関連超限定)>ママチャリで行く島津の退き口 その3
(注)当ページは「島津の退き口」のトレースを目標としており、実際の訪問順とは異なります。
平坦に続いていた旧伊勢街道は、この後一気に下り坂に突入します。
ちなみにこの辺りが岐阜県関ヶ原町と岐阜県大垣市上石津町の町界です。
※地図はこちら powered by mapionbb
この特にきついつづら坂が「烏頭坂(うとうざか)」といわれています。
左:坂の上から ※撮影ポイントの場所はこちら powered by mapionbb
中:坂の下から 奥に見える高架橋は名神高速道路 ※撮影ポイントの場所はこちら powered by mapionbb
右:島津豊久烏頭坂”墓所”より
通説では島津豊久がここで「捨てがまり」を実行し、戦死したと言われている場所です。実際ここを自転車で走行しましたが、かなりの速度が出て、ブレーキもかけっぱなしでした。また、地図を見て下さるとより分かりやすいですが、道がクランク状になっていて見通しが悪いです。敵方は騎馬にしろ徒歩にしろ、速度がついていて急には止まれない状態ですから、彼らを迎え撃ち「捨てがまり」を実行するには絶好のポイントであったことが素人でも容易に伺えます。
※石碑・看板をクリックすると拡大します。
この坂の途中、道路脇の小高い丘に「島津豊久の墓」と言われていた石碑が建っています。これは、大正9年に地元の顕彰会が建立した記念碑です。今まで一般的に「島津豊久の墓」と説明されることが多かったのですが、近年地元ではこの先の上石津町上多良にある墓こそ「島津豊久の墓」とする説が有力になったため、「島津豊久の記念碑」と説明されることが多くなりました。関ヶ原町立民俗資料館で配布していた関ヶ原関連のパンフレットでもすべて「島津豊久の碑」で統一されています。
※地図はこちら powered by mapionbb
写真で分かるように、道路に面して大きな看板が立ってますので見落とすことはないと思います。
先ほどの写真にも見えた階段を上がったところにある石碑
※クリックすると拡大写真 「墓」とは書いてない(爆)
ちなみに、その島津豊久碑付近から見た南宮山。
「関原御合戦記」ではここに布陣していた長束正家、長宗我部盛親に島津隊は使いを送り、その後長束政家がつけてくれた案内人により伊吹山地を越えたと書いてあることは先述しました(関ヶ原其の2参照)。
この後、旧伊勢街道は一気に上り坂になります。※写真クリックすると拡大写真表示
※地図ではこの辺りから烏頭坂方向をみて撮影しました powered by mapionbb
ママチャリで一気に降っていたのが、一転してペダルが重い…ヾ(^^;)
ちなみに写真左に見える広い道が現在の伊勢街道こと国道365号線。別名「薩摩カイゴウズ街道」。「島津の退き口」と江戸時代の「宝永治水工事」の関係から岐阜県と鹿児島県の間に提携関係が結ばれ、この道もこのように命名されたということです。
坂を上りきると、一転して平坦な道になります。
このように緩いカーブを描きつつ、ほぼ一直線の道が続きます。
先ほどの烏頭坂で、かなりの敵軍をくい止めたと思いますが、何しろ少数の島津軍に対して多数の東軍ですから、ほどなくこの辺りで追いつかれたのではないかと察せられます。
この辺りから再び民家が増えてきますが、実はここが西軍が関ヶ原に布陣したとき通過したと言われる牧田の集落です(詳しくは「関ヶ原其の1」参照)。今も旧街道であったのを偲ばせるような古い民家が残っています。
左:八幡神社 ※地図はこちら powered by mapionbb 石碑の字はあの松井石根による物。※写真クリックで石碑拡大
中:麦房神社 ※地図はこちら powered by mapionbb
右:金比羅大権現名が掘られた高さ2mはあろうかという常夜灯。※地図はこちら powered by mapionbb
そして、通説に寄れば、島津軍はここで2回目の「捨てがまり」を実行したようなのです。
この牧田の集落で、長寿院盛淳は島津義弘から拝領した陣羽織をまとい義弘の名前を名乗って戦い、義弘の身代わりとなって戦死したと言われています。
その後、牧田の集落の人によって長寿院盛淳他その配下の武将達の供養塚がこの地に建てられました。
長寿院盛淳がここで「捨てがまり」を決行した関ヶ原の合戦当時、牧田の集落がどれくらいの規模だったか不明ですが、まあ迷惑な出来事ではなかったかと思われます。
では、長寿院盛淳の墓へ向かいます。
この交差点は右折します
※地図ではここ powered by mapionbb
このT字路は左折
※地図ではここ powered by mapionbb
すぐに向かって右手にこの石碑が見えてきます。
※地図ではここ powered by mapionbb
この石碑のある路地に向かって右折。
現在長寿院盛淳の墓とその部下の供養塔がある琳光寺に到着。
※写真クリックで拡大写真
本堂の左横に、それらしい石塔が見えてきました。
左:門前側(東側)からみた長寿院盛淳墓(手前)と供養塔 ※クリックすると墓の拡大写真表示
右:奥側(西側)からみた長寿院盛淳墓と供養塔(手前) ※クリックすると写真拡大表示
長寿院盛淳の墓石は大正12年(1923年)に子孫と思われる阿多廣介によって再建された物のようです。ちなみに揮毫は島津義弘陣跡と同じく島津忠重による物。
供養塔は、関ヶ原の合戦から約150年後の宝暦3年(1753年)、宝暦治水事業のためにこの地にやってきた薩摩藩士により建てられたものといわれています。
実は長寿院盛淳の墓と、供養塔は元々別の場所にありました。明治時代に小学校を建設したりするために牧田集落の菩提寺であるここに移設されたそうです。
地元では、長年これらの場所に近づくと祟りがあると伝えられていたようです…。
ところで。
現在長寿院盛淳墓+部下の供養塔が置かれている琳光寺なんですが
島津氏ご禁制の浄土真宗のお寺(爆)
なんですが…ははは…_| ̄|○ 長寿院気の毒すぎる。
※ちなみに後日上石津町民俗資料館の方から聞いたが、この辺りは一向宗の勢力が強く、住民の大半が現在も浄土真宗門徒らしい…。
−こうして兵力を消耗しながら、島津軍は伊勢街道を落ち延びていったと思われます。
牧田上野の交差点 ※クリックで写真拡大
※地図はこちら powered by mapionbb
写真正面の道(現・国道365号)をまっすぐ行くとその当時「裏伊勢街道」と言われた道、写真手前の道(現・岐阜県道56号)を直進するとその当時「表伊勢街道」と言われた道になります。
島津軍はこの2手に別れて追っ手を攪乱し逃げていったといわれています。
実はこの「裏伊勢街道」の先が…続く。
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