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関ヶ原(島津関連超限定)>ママチャリで行く島津の退き口 その2

(注)当ページは「島津の退き口」のトレースを目標としており、実際の訪問順とは異なります。

周囲が総崩れとなったことにより、島津軍も決断を迫られる事態となります。「関原御合戦記」には明記されていませんが、慶長5年9月15日のお昼頃であったとされています。

「関原御合戦記」では

豊久は義弘に
「天運はここに尽きました、戦っても終わりを全うすることは出来ないでしょう、私はここで死にますから、公(=義弘)は兵を率いて帰国して下さい」
と告げます。しかし、義弘はその言葉を承知しませんでした。豊久は重ねて声を高くして
「国家の存亡は公の一身にかかっています、どうして分かって下さらないのか」
と言い終わると、銃兵13騎を率いて敵陣に突入、縦横に奮戦したが、遂に戦死した(ばんない意訳)
…とあります… 。・゚・(つд∩) ・゚・ 。
が、ここまで言われてもなおも戦死する覚悟の義弘に対し、今度は長寿院盛淳がこれをいさめ、
大将は軽率なことのために命を捨ててはいけません、私が公のお名前をふつつかながら名乗って、潔く死ぬ覚悟でございますので、必ず退去なさって下さい”(ばんない意訳)
といい、義弘の名前を代わりに叫びつつ、義弘の身代わりとなって戦死したとあります。

…実際、乱戦状態となっていたらこんな事言っている余裕はないと思うのですがヾ(--;)(実際「薩藩旧記雑録」所収の参戦者の覚書にはこれとはやや違うことを書いている文書もある)

−それはともかく、「関原御合戦記」では、更にこのあとに

関東の軍(=東軍)は左右に分かれ、敗軍を追って伊吹山に向かっていった。義弘は軍列を整え、進んで福島正則の軍の方向へ向かっていった(以下略)(ばんない意訳)
とあります。通説では「世界史的にも前例がない前進退却」と言われる「島津の退き口」の始まりです。
これが本当に当人達にとって「退却」だったのかどうかが、現在でも謎なのですが、島津軍が東軍に向かってつっこんでいったのは紛れもない史実です。
その経路をトレースします。

「関原御合戦記」によれば、島津軍は福島正則の陣の前を通過したとされます。

福島正則の陣があった場所の近くにある不破関所跡
※不破関所に関しては別項にて

…福島正則の陣跡には行きませんでした(単に忘れてましたヾ(--;))
※陣地跡の地図はこちら powered by mapionbb
「関原御合戦記」によれば、この時福島正則軍はわざと追撃しなかったとされます。
実は関ヶ原の合戦後、福島正則は島津氏の借金の肩代わりをするなど、かなり便宜を図ったようです。このため、正則に対しては実態よりもかなり好意的に記述がされている可能性があることを指摘しておきます。

「関原御合戦記」では、この後福島正則陣の前を横に通過し、本道(=伊勢街道)に出たとあります。しかし、ここで井伊直政・松平忠吉軍の追撃を受けることとなります。
  井伊直政・松平忠吉陣地跡※クリックすると拡大写真表示
 ※地図はこちら  powered by mapionbb
関ヶ原合戦後に戦死者の遺骸をまとめて埋めたと言われる「東首塚」と同じ場所にあります。
井伊直政は先頭に立って島津軍を追撃しますが、ここで川上忠兄配下の鉄砲隊に打たれて落馬します。※この時に井伊直政を狙撃した兵の話についてはこちらのブログ(膏肓記)参照
しかし、この後も追撃は激しく、遂に島津軍の兵は300人程度まで減ったとされます。

「関原御合戦記」では、この後川上忠兄が義弘の使いとして、

「今回は本意に背いて(西軍に)参陣してしまった、今、(家康の)陣の前を通過させていただく、それ故に家臣を使わした、本心は又改めて申し上げたい」云々(ばんない意訳)
と徳川家康の陣に言上しに向かったとあります。この後川上忠兄が本当に家康の陣で言上できたかどうかは不明ですし、この大混戦の状況で敵本陣に言上に行くと言うこと自体嘘臭いし、なにより、言上内容が非常に言い訳臭いです。ここから見て、「川上忠兄の言上」というエピソードは徳川氏に対する島津氏の言い訳捏造っぽいんですが…ヾ(--;) 詳しい皆様のご意見を待つ
ちなみに戦線離脱した川上忠兄のその後ですが、その後京までたどり着き、島津氏と縁の深い近衛前久・信尹親子にかくまわれ、無事に薩摩に帰国しています。

その後も更に厳しい追撃が行われたようで、「関原御合戦記」によると、伊勢街道を南下する義弘軍は桂忠詮、山田有栄が必死にしんがりを勤めるものの激戦による消耗は激しく、この時に残っていた将兵も多くが戦死したとされます。その後、南宮山に陣を張っていた長宗我部盛親・長束正家に義弘の生存を伝え、その後は長束氏のつけた案内人により駒野峠(※地図ではこちら辺り powered by mapionbb)を越えて近江国水口(現滋賀県水口町、長束正家領)に9月16日に到着したとあります。

…以上、「関原御合戦記」が伝える「退却」は

とするなど、他説とはやや異なっています。
以下では、現状の旧伊勢街道をトレースし、複数の説を紹介しつつ現状をご紹介します。


大河ドラマなどでよく描かれる「島津の退き口」では、島津軍は徳川家康の陣の目と鼻の先を通過していったとされます。
  陣馬野公園 ※クリックすると拡大写真表示
※地図はこちら powered by mapionbb
 左:家康の床几場があったといわれる場所に復元された竹矢来
 右:背後にあった慰霊塔。といっても関ヶ原の合戦の慰霊塔じゃなくて第二次世界大戦戦没者の慰霊塔。
徳川家康は当初桃配山(地図はこちら powered by mapionbb)に陣を敷きますが、合戦が膠着状態となると陣の場所をドンドンと西に進めていき、最終的にはここに陣を置いたとされます。
「関原御合戦記」では島津軍は福島正則陣の前を通過した(先述)はずなんですが、そうなると地理状況では、いったん南下したのをわざわざ北上して徳川家康の陣の前をかすめたということになり、行動には矛盾が生じると思われます。

ちなみにこの陣馬野公園のすぐ横に関ヶ原町立民俗資料館 があります。関ヶ原戦跡巡りをされる前に訪問されるのをお奨め。

その後、通説では、伊勢街道を南下する島津軍は井伊直政・松平忠吉の陣(先述)の前も通過したとされます。

現在はJR東海道線が通っている線路が谷となり、関ヶ原は南北に分断されていますが、合戦当時はなだらかに南に傾斜する地続きだったと思われます。…しかし現在はやむを得ないので高架橋を通り、JRを越え、関ヶ原駅の横の道を通ります。
駅前交差点まで出てきました。※地図はこちら powered by mappionbb

この交差点から、おそらく島津軍も通過したと思われる旧伊勢街道が残っています。

駅前交差点を関ヶ原駅方向から見たところ。※クリックすると拡大写真表示

赤い矢印の下辺りが旧伊勢街道になります。
この路地を南下していきます。
※この道は狭いので、自家用車で来る人は注意して下さい。なお一方通行なので、自動車では南下でのトレースはできないと思います。
  なだらかにカーブする道なりに進んでいきます…
途中に看板があるのでまず迷わないと思いますが…
※クリックすると拡大写真表示


「西公門」という交差点まで出てきました。
※地図はこちら powered by mapionbb

実はこの手前に見えている民家の横に…

あの本多忠勝の陣があったとされる跡地があります。
※地図はこちら powered by mapfan
通説では、島津軍はこのすぐ前を通過(確かに伊勢街道を南下していったら、この前通らざるを得ないですね)、あまりの侮辱に激怒した本多忠勝軍に執拗に追撃されたと言われています。

石碑があるのでまず見落とさないとは思いますが、跡地に行き着くには民家の間の路地を通りますので、静かに見学しましょう。
路地を通ると地元の公民館の入り口が見えますが、その裏庭にあります。

  ※クリックすると拡大写真表示
 左:石灯籠と祠が残っている(何が祀られているかは不明)
 右:その奥にあった本多忠勝陣跡の記念碑と旗。

   
更に旧伊勢街道を南下していきます。
 左:この辺り 鉄橋は東海道新幹線
 中左:この辺り
 中右:この辺り 幅の広い道(関ヶ原合戦当時はなかったと思われます)と合流
 右:合流地点を南側から。
平坦な道が続きます。ママチャリでも非常に走りやすかったです(^^;)。この辺りでの追撃戦はすさまじい物になったかと思われます。

関ヶ原 其の3へ続く…

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