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島津歳久女(島津忠隣室 後 入来院重時後室、湯之尾)

永禄10(1567)年丁卯8月6日〜寛永18(1641)5月23日<享年75歳>

<略歴>
島津歳久長女。父・島津歳久に息子がいなかったために、親族の薩州家島津義虎次男・島津忠隣を婿養子とした。しかし天正15年の高城合戦で夫・忠隣は戦死。さらに文禄元年には父・歳久が豊臣秀吉の命で殺害されたため、母や息子と共に家名の保持を要求して籠城する羽目となった。
その後、長男・常久を実家において入来院重時と再婚。が、慶長5年には再婚した重時も関ヶ原合戦で戦死してしまった。重時との間に娘しかいなかった歳久女は、前夫忠隣の弟・島津忠富(=入来院重国)を婿養子として入来院家の跡継ぎとした。しかしこの時に伯父・島津義弘に強引に訴えるなど母譲りの強硬な性格の女性であったようだ。
息子・常久は早世し、死の前年には入来院領地近隣で「御下の乱」(詳細は島津家久三女の項参照)が勃発するなどの事件もあったが、この当時は日置島津家も入来院家も島津家重臣として安泰の地位を築いており、激動の前半生に対して平穏な晩年を送った物と思われる。
後夫・重時の領地の地名から「湯之尾」と呼ばれていた(「旧記雑録」後編4−181など)。

<年譜>
年度
(日本歴)
年度
(西暦)
年齢 出来事 出典
永禄10丁卯
8月6日
1567 薩摩吉田で誕生
父・島津歳久、母・児島備中守女
「諸氏系譜」歳久「歳久」
天正12頃 1584頃 18 薩州家島津義虎次男・島津忠隣(母・島津御平)を婿養子とする 「諸氏系譜」歳久「歳久」
天正15丁亥
1月18日
1587 21 長男・島津常久出産 「諸氏系譜」歳久「常久」
同年
4月6日
高城合戦で、夫・忠隣戦死(享年19歳) 「諸氏系譜」歳久「忠隣」
「島津世家」 他出典多数
天正20
(=文禄元)壬辰
7月18日
1592 26 父・島津歳久が豊臣秀吉の命により殺害され、母と息子・袈裟菊丸(後の島津常久)と共に祁答院宮城に籠城する 「諸氏系譜」歳久「歳久」
天正20
8月11日
伯父・島津義久の説得により開城
入来院重時の世話となり坂中に退去する
「本藩人物志」入来院重時
文禄3 1594 28 入来院重時との間に娘(後・入来院重高室)を生む 「入来院氏系図」
慶長2 1597 31 常久を実家に置いて、入来院重時と再婚する 「諸氏系譜」歳久「歳久」
慶長5
9月
1600 34 夫・重時が敗走中に戦死する(享年27歳) 「関原御合戦記」
「本藩人物志」
慶長10春 1605 39 島津家久の命により頴娃久秀(=島津御平息子・島津忠富)を婿養子とする 「諸氏系譜」薩州用久「義虎」
「本藩人物志」入来院重高
慶長11頃
4月1日
1606 40 島津忠富(=頴娃久秀)を後継者に希望する旨を伯父・島津義弘に相談する
忠富には島津久賀妹(島津御屋地の長女か)との縁談が持ち上がっている最中であり、かなり強引な要求だったらしい
この頃「湯之尾」とよばれていた
「旧記雑録」後編4−181
「旧記雑録」拾遺1−251
慶長11頃
9月9日
義弘が島津忠富に入来院家に養子にはいるよう要請する 「旧記雑録」後編4−260
慶長13
1月30日
1608 42 島津義弘に使者として種子田新右衛門を使わし、樽1つと鯛一匹を贈る 「旧記雑録」後編4−419「加治木御日記」
慶長19
5月29日
1614 48 息子・島津常久が疱瘡のため鹿児島上之山で死去(享年28歳) 「諸氏系譜」歳久「常久」
「本藩人物志」島津常久
寛永17
7月9日
1640 74 隣国の相良藩で「お下の乱」勃発、国境を接する入来院領では当主・重高が不在のため心配される
このとき留守宅を守る歳久女は病気で伏せていた
「旧記雑録」後編6−148
寛永18
5月23日
1641 75 死去 法号「蓮秀妙心庵主」 「入来院氏系図」

史料によって差異があるが、天正20(=文禄元年)〜文禄2年の間に再婚が正しいか。後考を期す。

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