児島備中守女(島津歳久室)
大永3(1523)年〜慶長7(1602)年壬寅11月22日<享年79歳>
<略歴>
天正8年まで島津歳久の所領であった吉田(現・鹿児島県鹿児島郡吉田町)の侍・児島備中守の娘とされ、本名は分かっていない。
当初、本田惣左衛門なる侍に嫁ぎ男の子一人を産んだが、彼女が32歳の時に本田惣左衛門が戦死し、彼女は歳久と再婚したという。その後、歳久が豊臣秀吉の命により殺害されると、孫の常久を支えるために奔走し、彼女は大変な貧困にあえいでいた。その後成長した常久に引き取られ、晩年は日置で過ごした。
島津氏本家の三男・歳久の正室としては異様に身分が低く、年齢差もあまりにも大きいと思われ、そのためか「本藩人物志」島津歳久の項では「疑ラクハ妾カ」とまで書かれている。
<年譜>
年度 (日本歴) |
年度 (西暦) |
年齢 | 出来事 | 出典 |
大永4 | 1524 | 1 | 薩摩吉田で誕生か 父・児島備中守※、母・不明 |
「諸氏系譜」歳久 歳久長女補注 |
(年度不明) | 吉田の侍・本田惣左衛門尉※と結婚 | 「諸氏系譜」歳久 歳久長女補注 | ||
天文24 | 1555 | 32 | 本田惣左衛門が戦死する | 「諸氏系譜」歳久 歳久長女補注 |
(年度不明) | 島津歳久と再婚する | 「諸氏系譜」歳久 歳久長女補注 | ||
永禄10丁卯 8月6日 |
1567 | 44 | 長女(島津忠隣室 後 入来院重時後室)を出産 | 「諸氏系譜」歳久 歳久長女 |
天正12 | 1584 | 61 | 長女の婿養子として島津忠隣(薩州家島津義虎・御平夫妻の次男)を迎える | 「諸氏系譜」歳久 忠隣、歳久長女 |
天正15丁亥 4月6日 |
1587 | 64 | 婿養子の忠隣が戦死(享年19歳) | 「諸氏系譜」歳久 忠隣 その他頻出 |
天正20(=文禄元)壬辰 7月18日 |
1592 | 68 | 夫・島津歳久が豊臣秀吉の命により殺害され(享年56歳)、児島備中守女は娘と孫・常久と共に祁答院宮城に籠城する | 「諸氏系譜」歳久 常久325 その他頻出 |
同年 7月26日 |
義兄・島津義久、細川幽斎から将来の領土安堵の起請文を受け取り、開城する | 「旧記雑録」後編2−940〜941 「諸氏系譜」歳久 常久326〜327 |
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文禄2 8月23日以前 |
1593 | 69 | 飯野(文禄2年当時島津義弘領)に暮らしており、島津義久の命で島津義弘から100俵が堪忍料として送られるが、これでは面目なく不十分である旨言上する | 「旧記雑録」後編2−1186 |
文禄2 11月 |
義兄・島津義弘に現状に関する不満を訴える | 「旧記雑録」後編2−1208 | ||
慶長2 | 1597 | 74 | 堪忍料300石を不満とし、石田三成の部下である安宅三河守秀安に訴え出る | 「諸氏系譜」歳久 常久328 |
慶長2? 3月21日 |
義兄・島津義久から直接石田三成に訴えたことを「京儀をわきまえぬ行為」とたしなめられる | 「諸氏系譜」歳久 常久331 | ||
慶長2 7月3日 |
義兄・島津義弘から、直接石田三成に訴えた行動を厳しく叱責される | 「旧記雑録」附録2−179 「諸氏系譜」歳久 常久333 |
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慶長7壬寅 11月22日 |
1602 | 79 | 孫・常久の領地である日置で死去 法号「悦窓永喜大姉」 |
「諸氏系譜」歳久 歳久長女補注 |
※児島備中守の出自不明。薩摩藩士に児島氏はいるが、吉田出身の児島氏は見あたらない。(『「さつま」の姓氏』参照)
※本田惣左衛門の素性不明。本田氏は島津家の創始の頃から仕えている大族だが、吉田に居住した一族が見あたらない。(『「さつま」の姓氏』参照)
この最初の夫については、「祁答院記」では中村氏と記していた、と言う別伝もある(「本藩人物志」島津歳久)