新納是久女(島津善久室 後 島津運久(忠幸)室、常磐、梅窓夫人)

生年未詳〜大永5(1525)年10月10日<享年不詳>

<略歴>
島津氏分家である新納家4代当主忠治の三男・新納是久の娘。5代当主・新納忠続の姪に当たる。
当初、日向国福島領主だった島津久逸の長男・善久と結婚する。しかし舅の久逸と新納本家当主・忠続は不和となり、更に久逸側を伊東氏が支持、新納忠続を島津本宗家の忠国が支持するなど大混乱となった。結局久逸は忠国によって福島領主を罷免され、旧領の伊作に引き上げる。この時に是久女も伊作に同行した。
しかしこの後、夫・善久は家来に撲殺、同年に舅・久逸も戦死。後を継いだ忠良が幼少だったため、母親である是久女が後見として実質上伊作家を切り盛りした。
「旧記雑録」によると、近隣の領主であった相州家の当主・島津運久が是久女の美貌に目を付け、都度都度求婚してきたが、是久女は運久に既に正室がいたことを理由に断っていた。が、運久はこの正室を殺害した上で更に是久女に求婚したので、是久女は苦慮した上「息子・忠良を、子供のいない運久の後継者とすること」を条件に再婚に応じたという。この話は有名だが、実はほとんどの史料では触れていない話でもある。実のところは、当主が幼少だった伊作家の領地を狙った運久と、運久に跡継ぎがいないところに目を付けた是久女の政略結婚ではなかったのではないだろうか。
その後運久との間に2女を儲けたが、運久との間に男子が生まれていたら忠良のその後の人生も変わっていたと思われ、更にその後の島津家も随分違っていた物になっていたと推測される。忠良はその後伊作家と相州家の両方の領地を合わせて嗣ぎ、島津の有力分家となった。是久女のもくろみは見事に当たったと言えよう。
彼女は忠良のために甥・新納忠澄を故郷の志布志から呼んで養育担当とした。関ヶ原の合戦の後、徳川家康との間で折衝に当たった新納旅庵は新納忠澄の孫になる。又もう一人の甥・新納忠祐の孫があの新納忠元になる。江戸時代以降島津家の中で重職を勤めた新納一族は全て是久女の甥の系統に当たり、新納本家と対立して没落した実家の再興にも深く関与した女性である。
ちなみに戦国時代の入門書などでは、彼女は「島津常磐」と書かれているが、実は「常磐」という名前は「旧記雑録」前編2−1962にしか出てこない。史料では戒名である「梅窓」と書かれていることの方が多い。


<年譜>
年度
(日本歴)
年度
(西暦)
年齢 出来事 出典
(年度不明) 誕生 父・新納是久 母・不明(佐多某女?) 「諸氏系譜」新納氏 是久女
(年度不明) 伊作久逸の子・善久と結婚 「諸氏系譜」新納氏 是久女
文明17
6月21日
1485 父・新納是久が舅・伊作久逸方となり飫肥川原合戦で戦死(享年不明) 「諸氏系譜」新納氏 是久
(年度不明
明応元以前)
〜1492 島津善久の長女(後 吉田以清室)を産む 「島津氏正統系図」
「諸氏系譜」伊作氏 善久長女
他頻出
(年度不明
明応元以前)
〜1492 島津善久の次女(後 島津昌久室)を産む 「島津氏正統系図」
「諸氏系譜」伊作氏 善久次女
他頻出
明応元 1492 善久の長男・菊三郎(後の島津忠良)を産む 「旧記雑録」前2−1962
他史料頻出
明応3 1494 夫・善久が奴僕に撲殺される 「旧記雑録」前2−1962
他史料頻出
(年度不明
明応9以降)
1500〜 島津運久と再婚する 「旧記雑録」前2−1962
他史料頻出
(年度不明
明応9以降)
1500〜 島津運久の長女(後 島津(吉利)忠将室)を産む 「島津氏正統系図」
「諸氏系譜」忠良 運久長女
他頻出
(年度不明
明応9以降)
1500〜 島津運久の次女(後 佐多忠成室)を産む 「島津氏正統系図」
「諸氏系譜」忠良 運久次女
他頻出
大永5
10月10日
1525 死去 法名「梅窓妙芳大姉西福寺殿」 「御家譜」忠良公

「旧記雑録」前編2−1962では「久逸の子又四郎善久、始日州福嶋の衆新納駿河守是久養子と為り、其の女を妻す」とあるが、「諸氏系譜」新納氏に依れば是久女には兄がいるので、養子縁組だったのかやや疑問あり。

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