島津善久女(島津昌久室)
生没年未詳
<略歴>
延徳〜大永頃の女性。伊作家7代当主・島津善久と新納是久女の間の次女で、島津昌久に嫁いだ。
島津昌久は薩州家の分家に当たり、子孫は永禄年間以降、大田氏を名乗っている。
島津善久の父・伊作久逸は、昌久の弟・島津忠福が薩州家・島津忠興と対立した際に救援に向かい、そのために戦死している。久逸は孫娘が忠福の兄嫁だったので救援したのだという(「諸氏系譜」大田氏 忠福、伊作氏 久逸)が、その後昌久は忠興の息子・実久に付き、そのために久逸の孫・島津忠良と戦い自害するという骨肉の争いを展開した。夫の死後、善久女は昌久の遺児と共に阿多(現 鹿児島県日置郡金峰町)に引きこもった。その後の彼女の詳細は明らかではない。
なお、「日新菩薩記」によれば、忠良の姉の”天津公”は女性でありながら祥山和尚に参じ、三関透得山居の庵主と称せられた、という禅宗に通じた女性であったというが、この「天津公」が善久の長女をさすのか善久の次女を指すのかは不明である。
年度 (日本歴) |
年度 (西暦) |
年齢 | 出来事 | 出典 |
(年度不明 明応元以前) |
〜1492 | 誕生 父・島津善久、母・新納是久女 | 「島津氏正統系図」 「諸氏系譜」伊作氏 善久次女 他頻出 |
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(年度不明) | 薩州家分家・島津昌久に嫁ぐ | 「島津氏正統系図」 「諸氏系譜」伊作氏 善久長女 他頻出 |
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(年度不明) | 長男・四郎三郎(後 島津忠成)を産む | 「諸氏系譜」大田氏 忠成 | ||
(年度不明) | 長女を産む(後に夭折) | 「諸氏系譜」大田氏 昌久長女 | ||
(年度不明) | 次男・五郎三郎(後 島津忠績)を産む | 「諸氏系譜」大田氏 忠績 | ||
(年度不明) | 次女を産む | 「諸氏系譜」大田氏 昌久次女 | ||
明応9 11月11日 |
1500 | 祖父・伊作久逸が義弟・島津忠福を救援する戦で、薩州家本家・島津忠興に敗退、戦死する(享年61歳) | 「諸氏系譜」伊作氏 久逸 「諸氏系譜」大田氏 忠福 |
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大永6 11月 |
1526 | 夫・島津昌久が島津忠兼(後 勝久)によって大隅帖佐の地頭に任命され、移住する | 「諸氏系譜」大田氏 昌久 | |
大永7 5月7日 |
1527 | 夫・昌久、島津忠兼から島津実久側に寝返ったため、島津忠良に攻められ自害(享年不明) 息子達を連れて阿多に退去する |
「諸氏系譜」大田氏 昌久、忠成 | |
(年度不明) | 死去 法号「天津芳祐庵主」 | 「御家譜」忠良公 御連枝 |