某女(小西行長女? 有馬式部大輔先室 後 喜入忠政後室 後離縁)

生年未詳〜万治3(1660)年11月16日<享年未詳>

<略歴>
皆吉続能女(カタリナ永俊尼)が先夫との間に生んだ娘で、当初、県士・有馬式部大輔に嫁ぎ一女を儲けたが別離し、その娘を連れてその頃鹿児島に移っていた実母・皆吉続能女を頼った。その後島津家家老・喜入忠政の後妻となり、一女を儲けた。地元の名家出身でない彼女が家老の妻になれたのは、ひとえに異父妹・島津忠清女が島津家久(忠恒)の側室となり、次期藩主であった島津光久を儲けたことに起因していると考えられる。
しかし、その後母親の影響を強く受けたキリシタンであることが発覚し、娘2人(島津久茂先室(於婦理)、喜入忠政女(御鶴))共々種子島に流刑となり、その地で亡くなった。
なお、「旧記雑録」後編5−884添書や「喜入氏系図」では彼女の父を小西行長としているが、切支丹側史料に見える皆吉続能女の洗礼名が「カタリナ」(「イエズス会年報書簡」)、小西行長の妻は「ジュスタ」(「日本切支丹宗門史」)と全く異なることから疑問である。


<年譜>
年度
(日本歴)
年度
(西暦)
年齢 出来事 出典
(年度不明
慶長5以前)
〜1600 誕生 父・不明(小西行長?) 母・皆吉続能女 「旧記雑録」後編5−884添書
「喜入氏系図」
慶長17 1612 有馬式部大輔の娘(於婦理)を生む
この直後、有馬式部大輔と離婚か?
「喜入氏系図」
(年度不明) 島津家家老・喜入忠政の後妻となる 「諸氏系譜」喜入氏 忠政女
「喜入氏系図」
元和7 1621 忠政の娘(菊鶴 後改名し御鶴)を生む 「諸氏系譜」喜入氏 忠政女
「喜入氏系図」
(年度不明) 娘・菊鶴が新納久正(新納久了)と婚約 「喜入氏系図」
寛永12 1635 隠れキリシタンであることが発覚 「喜入氏系図」忠政女御鶴
寛永13
4月
1636 娘の於婦理・御鶴と共に種子島に流刑となる 「喜入氏系図」忠政女御鶴
寛永13
6月26日
種子島の石之峰に移る 「喜入氏系図」忠政女御鶴
寛永16
6月28日
1639 隠れキリシタンであることが発覚、娘・於婦理や御鶴ともども種子島赤尾木(現・鹿児島県西之表市)石之峰に共に押し込められる 「種子島家譜」5十七代忠時
万治3
11月16日
1660 種子島井上にて死去 法号「遍照院妙身」 「種子島家譜」8十八代久時

死別の可能性もあるが、慶長17年に「岡本大八事件」が発覚し、切支丹大名・有馬晴信は斬首となり、跡を継いだ有馬直純は慶長15年には妻の小西行長女(当然切支丹である)を離縁し棄教しているうえに、岡本大八事件の後に長崎から日向県(現在の宮崎県延岡市付近)に転封させられている。ここからみて、種子島に流刑されても切支丹であったという強固な信仰を持っていた皆吉続能女の娘が有馬直純に同行した夫・有馬式部大輔と宗教上の対立から離婚したことは多いに考えられるであろう。
ちなみに木村フジエ氏はこの有馬式部大輔を有馬直純と考えておられるが(『殉教者カタリナ永俊尼と島津家』)、有馬直純の官名は「左衛門佐」であり異なることから、これには同意しかねる。

史料によって年度が異なる。当時御法度であった切支丹、しかも皆吉続能女一族は次期藩主である島津光久の縁者だったため証拠隠滅などがあり記録が混乱した物とも考えられる。後考を期す。

<墓所>
栖林神社内 種子島家墓所(現 鹿児島県西之表市西之表)

なお皆吉続能女らの墓所については「日本福音ルーテル東京教会」HP「きずな369号」の記事を参照した。


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