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系図(島津氏<加治木島津家>)

<概説>
加治木島津家は島津家久(忠恒)の三男(実質的に次男)であった島津忠朗に始まる家系である。

島津忠朗は元和2(1616)年11月7日に鹿児島で誕生する。すぐ上の兄・光久とはわずか5ヶ月違いの生まれであった。
ところで、忠朗には早世した兄・兵庫頭がいた。島津家久(忠恒)がこの早世した長男に特別の思い入れをしていたのは明白で、同母弟の忠朗も同じ幼名を名乗っていた。ちなみに「兵庫頭」とは家久の父・島津義弘の官名でもある。
元和5(1619)年にはわずか3歳で父・家久と同行し、京→江戸と移住している。これは叔母・島津御下に替わって人質となるためというのが名目であったが、この滞在中に徳川秀忠や徳川家光に対面し、様々な贈答を交わすなどの様子は、まるで世子(次期藩主)の扱いを受けているかの如くであった。
寛永2(1625)年、兄・光久が人質として江戸に移るのと入れ替わりに薩摩に帰還するが、本城の鹿児島には入らずに、加治木に住むようになった。ここは祖父・島津義弘の遺領があったところである。そして寛永8(1631)年9月4日に正式に父・家久より加治木一万石に封ぜられ、祖父・義弘の遺臣を引き継いで分家を設立する。「加治木島津家」の誕生である。しかし、ここに至るまでは紆余曲折があり、父・家久は当初忠朗には北郷本家を相続させるつもりだったが、忠朗母・鎌田政重女の猛烈な反対により、結局垂水島津家を相続する予定だった四男・久直(母は島津忠清女)が北郷家に婿養子に入ったという(「旧記雑録」後編4−1600)。また「加治木古老物語」では、忠朗は3歳で江戸に行く前に祖父・義弘から「又八郎」(島津家久の通り名)と「忠平」(島津義弘の初名)の名乗り、及び義弘が持っていた加治木領の相続を確約されていたともされる。その後、忠朗は母・鎌田政重女や同母兄弟を鹿児島から加治木に呼び寄せて同居するようになったらしい(詳しくは拙HP「鎌田政重女」項を参照)。
家久の忠朗に寄せる愛情は格別のものであったらしく、寛永13(1636)年には更に加増があり合計17800石という鹿児島藩の中では異例の大領を持つようになった。この事態を当時の家老・伊勢貞昌は「まるで世子が二人いるが如く」と心配していた(「旧記雑録」後編4−1600)が、家久の死後にこの心配は的中するのである。

家久の死後に藩主となった光久が、このような扱いを受けていた忠朗によろしい感情を持っているはずが無く、忠朗の同母兄弟やその縁者に反逆の意思がない旨の起請文(「旧記雑録」後編6−181、6−395、「旧記雑録」付録1−395など)を何度も書かせているのはその現れであろう。
また光久の代に忠朗は3回も江戸に人質として東上しているが、光久の同母兄弟でもない忠朗がこのように人質となるのは異例の事態であった。
忠朗は延宝4(1676)年2月16日に死去し、その後を継いだ久薫(母は島津忠栄女)も貞享3(1686)年1月17日に子供がない※1まま54歳で死去すると、島津本宗家から島津綱久の息子・久住が養子として送り込まれたのである。久住は忠朗三男・頴娃久友の娘を妻として向かえ夫妻の間は大勢の子にも恵まれたが、結局再び本宗家から向かえた養子・久門(後の重年、島津継豊子)が久住の跡を継いでいる。そのため加治木島津家には忠朗の血統は残っていない。
ちなみに久住夫妻の子供が跡を継げなかった原因は、加治木島津家が本家に万が一のことがあった場合に代替の跡継ぎを出す「御一門衆4家」の筆頭だったからであった。加治木島津家には常に藩主に最も近い血統の男子が当主にいる必要があったのである。つまり、結果として島津家久が忠朗を思う気持ちは見事に逆に働いたのであった。このため久住夫妻の長男・久連は跡を継げぬまま宝永7(1710)年に本家の命により隠居させられ、失意の中、正徳2(1712)年に急死した※2
加治木島津家のその後を継いだ当主も養子が多く、明治になり男爵となり華族に列するが、現在の当主も先代当主の外孫からの養子である。

ちなみに、久住の後に養子になった重年が後に7代藩主となり、更に重年と垂水島津家の姫・島津都美の間に生まれた重豪が8代藩主となった。そのため「藩主を輩出した家」として「御一門衆四家」の中でも加治木島津家の家名は非常に高まり、その家臣の勢いは時に鹿児島城下士よりもひどいときがあった。それ故に加治木と鹿児島他地域との間には近年に至るまで感情的なしこりが残っていたらしい。

ところで、忠朗には同母弟に忠広という人物がいた。当初、伯母の豊州家島津朝久室・島津御屋地の遺領を嗣ぐ予定だったため養育も豊州家でされている。その後寛文7(1667)年には家老に任ぜられたが、延宝6(1678)年に島津光久の命で島津御屋地との養子縁組を解消させられ、加治木島津家に戻されている。名目は「分家の豊州家から本家に復帰」と言うことであったが、しかしその実態は領地取り上げであったと推測される。その翌年(延宝7年)に忠広は家老職を辞職している。
元禄16(1703)年8月3日、忠広死去。享年84歳。島津家久の子供達の中でもっとも長命であった。


※1『加治木郷土誌』では島津久薫には実子がいたとするが、「諸家系譜」忠朗(『鹿児島県史料』諸家系譜3)には久薫の子供は全く明記されていないため疑問がある。後考を期したい。
※2『加治木郷土誌』所収の俗説に寄れば、島津吉貴の側室・お須磨の方の讒言により死に追い込まれたという。ちなみに4代加治木島津家当主となった島津久門(=重年)はお須磨の方の孫に当たる。

参考文献
『加治木郷土誌』(1992年版 加治木郷土誌編纂委員会)

<系図>


(系図参照文献)
「諸氏系譜 忠朗・久儔」(『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 諸氏系譜3』)
『加治木郷土誌』(1992年版 加治木郷土誌編纂委員会)
『平成新修旧華族家系大成』上巻(霞会館編集 吉川弘文館)


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