伊東権頭女(伊勢貞成妻)
生没年未詳
<略歴>
天正〜慶長頃の女性か。伊東権頭なる武将の娘で、伊勢貞成に嫁いだ。
伊東権頭は「本藩人物志」によると伊東義祐の弟といい、彼女は島津歳久次女と異父兄弟の関係にあるという。
夫・伊勢貞成〔永禄12年〜慶長12年11月8日〕は島津義弘の家老の一人という重臣。弟が島津忠恒(家久)筆頭家老となった伊勢貞昌。慶長12年(1607年)に「御方御姫様」(島津御下か島津朝久次女と目される)と唐津領主・寺沢広高との縁談が破談になった際の騒動に巻き込まれ、寺沢側の家臣に斬殺されたという人物である(「本藩人物志」)※。
年度 (日本歴) |
年度 (西暦) |
年齢 | 出来事 | 出典 |
(年度不明) | 誕生 父・伊東権頭 母・新納忠堅女 | 「諸氏系譜」伊集院氏 久清 「本藩人物志」伊勢貞長 |
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(年度不明) | 貞成の長男・貞長を産む | 「本藩人物志」伊勢貞長 | ||
(年度不明) | 貞成の次男※久清(後伊集院久寛養子)を産む | 「諸氏系譜」伊集院氏 久清 |
※破談の理由について「本藩人物志」伊勢貞成 の項では「彼家ハ切支丹之様ニ相聞得候ニ付御異変之御談合(以下略)」とあるが、「フロイス日本史」など切支丹側の史料では寺沢広高は切支丹弾圧者としてあしざまに書かれていること、寺沢広高には妻木貞徳女が正室とあることから見て、「本藩人物志」の記述は疑わしい。おそらく、島津家と寺沢家の間に何かのトラブルがあり、その結果伊勢貞成が殺害される結果となったように考えられる。
※「本藩人物志」では伊勢貞成次男は「伊勢左近貞清(中略)子孫伊勢仁右衛門」とされ、伊集院家に養子に行った様子がない。伊集院久清も「左近」を名乗っていることから、伊勢貞清と伊集院久清は同一人物でおそらく伊勢氏をしばらく名乗った後に伊集院家に養子に行ったものと考えられるが、後考を期す。