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関ヶ原(島津関連超限定)>ママチャリで行く島津の退き口 その1

(注)当ページは「島津の退き口」のトレースを目標としており、実際の訪問順とは異なります。

2009年3月某日、関ヶ原に行って参りました。
この日から約408年と5ヶ月ぐらい前にこの地で大規模な内戦が行われました。
 あの、「関ヶ原の合戦」です。

本来ならせめて季節とか気候とか天候ぐらいは当時の状況に近い状況でトレースすべきなのですがそんな予算はない諸般の事情により、この時期での実況検分となりました。
天候は快晴でした。とっても杉花粉症日和!ヾ(--;) 関ヶ原合戦当時は午後から天候が一気に崩れて大雨になったといわれていますが…。

以下、基本的な典拠史料は「惟新公関原御合戦記」 (戦国史料叢書〈第2期 第6〉島津史料集 (1966年) 所収) (以下「関原御合戦記」と略)に寄ります。


慶長5年9月14日(旧暦、1600年)深夜、大垣城(「関原御合戦記」ではこの城の外に陣屋を築いたとされる)から島津軍は牧田村(現・大垣市上石津町牧田)を通過、関ヶ原方面に移動し布陣しました。「関原御合戦記」では”大雨で移動に難渋した”(ばんない意訳)と書かれております。中山道の本道は避けて通ったようです。この牧田は後に島津氏の運命を左右する場所になるのですが、後述。

陣を張ったのは、 の辺り。 ※地図はこちら powered by mapionbb
現在は神明神社という小さな神社が建っており、その鎮守の森が鬱そうとしていますが、南宮大社を初めとして多くの寺社が放火されたことから推測するに、開戦当時はこんな林はなかったと思われます。
諸HPで「島津義弘陣地」として紹介されている石碑はこの神社の裏手にあります。諸地図では神社門前からかなり迂回しないといけないように見えますが、実際は横に石碑にたどり着く道があります。但し細い道のため自動車では入れないので注意。

神社鳥居に向かって右横の私有地にとっても親切な看板があるので、まあ初心者でも迷わないと思います(たぶん)。ママチャリでも1分かからず…



見覚えのある島津家紋入りの旗が見えました。※写真をクリックすると拡大写真を表示

ちなみにこのY字路、向かって右に行くと石田三成の陣地のあった笹尾山にたどり着きます。
※今回は「超島津限定」のため訪問は省略しましたヾ(--;)


島津義弘陣地として有名すぎるこの石碑に到着。 ※地図はこちら powered by mapionbb
※写真をクリックすると石碑の拡大写真を表示

石碑の揮毫は義弘の末裔になる公爵・島津忠重による物です。

ちょっと気になる石碑の裏写真はこちら
ご安心下さい、高野山「朝鮮役敵味方戦没者供養碑」みたいな目には遭わせませんヾ(--;)


石碑の横辺りから撮ってみる。
「小池島津義弘公陣地古趾」という別の石碑あり。

個人的な印象ですが、おそらく関ヶ原合戦史跡としては一番早く整備が進んだ陣地跡だと思います。


どうも昭和35年(1960年)から、夏休みを利用して地元鹿児島からここにお参りする有志の方がいらっしゃるようで、その歴代の石碑が壮観です。
 
 左:南側より。手前に行くほど最近の訪問者の記念碑。
 右:石碑(北)側より。奥に行くほど最近の訪問者の記念碑。
まるで、上記の石碑の楯になってるみたいです。

石碑から、神明神社本殿方向を見る

あちらの方向に東軍がいた…はずなのですが、今は林が鬱そうとしていて余り見晴らしは良くないです。

そこから南西に100m程度離れたところに小西行長が陣を敷きました。 ※地図はこちら powered by mapion
キリシタン大名として著名な小西行長は、直接国境を接する関係か島津氏と比較的親しくしていたようです。小西軍のすぐ横に島津軍が配置されたのもこれに関係しているのではないかという指摘があります(『新宇土市史』通史編第2巻「中世・近世」)。

陣地跡に建つ石碑。※クリックすると石碑拡大写真
ちなみに関ヶ原町立のグラウンドの横にあります。
島津陣地跡に比べて開けて明るい物の、石碑そのものは寂しい限り。

話が前後しますが、小西行長は関ヶ原戦後、石田三成、安国寺恵瓊らと共に西軍責任者として京の六条河原で斬首刑となり、家族・家臣団ともに離散したと言われます。また、小西領はその後加藤清正領となりましたが、その時に徹底して小西時代の残滓の抹消が行われたと言われております。なので、地元の宇土でも小西時代の史料はおろか、良い逸話も余り残ってないらしい…。その後、元領民の間でも余り小西行長時代が懐古されることもなかったようです。

この小西行長陣地の前辺りで、関ヶ原の合戦の最初の火蓋が切られたと言われています。慶長5年9月15日早朝、前日深夜の雨で霧が出ており、視界は非常に悪かったと言われています。
当初、東軍に属していた福島正則が先鋒を命じられていたものの、「偵察」と言って裏を掻いた井伊直政・松平忠吉が先回りしてこの小西隊に鉄砲を打ちかけて開戦のきっかけを作ったというのは、大河ドラマ『葵・徳川三代』でも描かれていて有名な話。

現在「開戦地」とされる石碑は小西行長陣地跡のあるグラウンドの入り口付近にあります。分かりやすい。
※クリックすると拡大写真表示
※地図はこちら powered by mapfan

石碑の真後ろにある木の後ろに見える林が島津陣地跡の神明神社です。

開戦地石碑の手前には、馬防柵らしい物が復元されてました。
※クリックすると拡大写真表示

開戦地石碑から見る島津陣地跡方向
石碑の向こうに見える森が島津陣地跡(現神明神社)です。
※クリックすると拡大写真表示


「関原御合戦記」では、陣地配置の状況はこういう感じだったそうです。

石田三成は既に備えを二段に設け、その一段は嶋左近親子・雑賀内膳を将としていた。もう一段は三成が指揮していた。皆道路※1の北にあった。次に島津豊久冨の隈方※2の士卒がここに陣を敷いた。三成の備えから離れること1町半ぐらいである。次に義弘は藤川※3を越えて、小関※4の南巽に向かって陣を敷いた。豊久から1町ばかり離れたところである。豊久は道路の南、義弘は道路の北である。次に宇喜多秀家・小西行長が小高い丘に陣を敷いた。義弘を去ること5町ばかりである。
(ばんない意訳)
注1:おそらく北国街道(だいたい今の国道365号)
注2:島津義久配下の部隊。ちなみに義久本人は参戦してない。
注3:現在地図上で該当する川が見つからない。
注4:関ヶ原町に小字「小関」が今もある。地図ではこの辺り


…現地に行った感想+上の写真から見る限りじゃ、小高い丘の方に陣敷いてるのはどう見ても義弘のほうなんだけどなぁヾ(--;)
ちなみに今回は訪問から外しましたが何しろ「超島津限定」、宇喜多秀家の陣は確かにちょっと小高い丘の上にあります。こちら powered by mapion …小西、十把一絡げに扱われたか?ヾ(--;)

ともかく、この後小西軍は東軍の猛攻撃を受けたと言われていますが、その近所にいる島津軍は

…てな状況だったようです(「関原御合戦記」参照)。
小西軍総攻撃されてたら、上記の地理状況から見て島津軍も巻き添えになってえらいことになっていたはずなんだが…うーん。
また、亀井茲矩は最初から東軍方に着いていたという説の方が有力のようです。亀井とは朝鮮出兵時の「琉球守」事件など島津氏とは間接的に遺恨の中なのでわざと悪く書いた可能性もありますが…。

そうこうしている間に、遂に運命のあの時がやってまいります(by松平○知)ヾ(--;)
 小早川秀秋が変心したのです。
…個人的には小早川秀秋が「裏切り」したのかどうか疑問なのですが、「関原御合戦記」ではその説をとってますので、今回はそれで話を進めます

このため、島津隊の付近でもさっきまで味方と思っていた者が次々と裏切り、大乱戦状態となり、何がなんだか訳の分からない大混乱状態となります。

小西行長陣+宇喜多秀家陣の中間辺りから笹尾山(石田三成陣)・伊吹山方向を見た風景
※地図はこちら powered by mapionbb

家が無く田畑のみなので、合戦当時の状況がイメージしやすい場所。

その中で、「島津の関ヶ原」で有名なあの事件が起こります。
石田三成家臣・八十島助左衛門が島津豊久に加勢を2回依頼に来ますが、これを無視します。そのため今度は三成本人が加勢を依頼に来ますが、豊久は

今日は各自おのおのに武勇を励まし、力を尽くそうと思っている。勝敗が決する先なんて分からない、運は天に任せてある(ばんない意訳)
とこれまた断り、三成はこの豊久の発言を聞いて力を落とし、自陣に帰ったというのです。 …この話は非常に興味深いのですが、このコラムは「超島津限定で関ヶ原の合戦をトレース」を目標としていますので、今回は考察保留_(。_゜)/

−そして、石田三成、小西行長、宇喜多秀家軍はすべて総崩れとなったのです。その後の島津軍は
義弘・豊久ともに「早々鉄砲を撃つな、又狙いは必ず外すな、師験(いくさじるし)腰にはさんだ削り掛け※5、刀の鞘の蛭巻※6共に解いて捨てよ、おのおのこの命令を守ること」と軍に命令し、敵が迫ってくると一斉に一度鉄砲を撃ち、二度撃ちはしないようにしたけれど、敵味方入り乱れる状態となり命令を守れる状態ではなくなった”(ばんない意訳)
注5:木を薄く削ってカールさせたものを削掛と言い、護符にしていたようだが、「師験」と関係のあるものなのか、詳細未詳。情報求む
注6:刀の鞘の補強金具。くるくる螺旋状に鞘に巻き付けていた。

…という凄惨な状態となりました。

関ヶ原其の2へ続く…

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