税所篤正女(町田久幸後室)

生年未詳〜寛永8(1631)年7月3日<享年不明>

<略歴>
税所篤正の娘で、島津忠長女の死後、久幸の3人目の妻となった。しかし、久幸は仕事柄鹿児島と江戸との往復でほとんど一緒には暮らしていなかったと思われる。
寛永元年に久幸が亡くなると、久幸には子供が1人も居なかったために町田家の家督を巡って混乱が起きたが、藩主・島津家久の息子である忠尚を養子として迎えた。姑・高崎能宗女や家臣団の意向、そして島津家久の意向が強く働いた物と思われる(「町田氏正統系譜」忠尚)。忠尚が養子にきた後、彼女は町田家を去ったが、その後、忠尚実母・宮原景辰女の変死、姑・高崎能宗女の死など町田本家には凶事が連続し、町田家家臣団の願いにより町田家に戻った。町田家に復帰した後は忠尚の養育に当たりつつ町田家の差配を行ったと思われる。


<年譜>
年度
(日本歴)
年度
(西暦)
年齢 出来事 出典
(年度不明) 誕生 父・税所篤正 母・不明 「町田氏正統系譜」久幸、忠尚
(年度不明
慶長14以降)
1609〜 町田久幸と結婚 「町田氏正統系譜」久幸
寛永元
6月17日
1624 夫・久幸が江戸の桜田藩邸(或いは江戸品川宿)で死去(享年53歳)
江戸の豊島郡駒込吉祥寺に葬られ、遺髪だけが鹿児島の福昌寺に戻ってくる
「町田氏正統系譜」久幸
寛永3
4月23日
1626 養嗣子・町田忠尚の実母である宮原景辰女が急死 「町田氏正統系譜」忠尚
寛永4
1月24日
1627 姑の高崎能宗女が死去 「町田氏正統系譜」忠尚
寛永4
5月3日
これ以前に町田邸を出ていたが、島津家久の命や家臣・町田久興の願いにより、忠尚の養育のため町田邸に戻る 「町田氏正統系譜」忠尚 387「町田久興覚」
寛永5 1628 大隅国帖佐郷住吉村の住吉神社の再建に対し、養子忠尚と共に連名で勧進する 「町田氏正統系譜」忠尚
寛永5
12月16日
島津家久が忠尚の養育について書状を送る 「町田氏正統系譜」忠尚 390「町田久興覚」
寛永8
1月24日
1631 島津家久が江戸から書状を送る 「町田氏正統系譜」忠尚 391「島津家久書状」
寛永8
7月3日
死去 法号「花窓了栄大姉」
鹿児島福昌寺にある夫・町田久幸の墓に合葬される
「町田氏正統系譜」忠尚

<墓所>
福昌寺跡(現鹿児島県鹿児島市)
※現在の福昌寺跡には町田家の墓が見あたらなく、墓は消息不明になっている可能性高し。

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