宮原景辰女(島津家久側室)
生年未詳〜寛永3(1626)年4月23日没<享年不明>
<略歴>
元和7年、島津家久との間に六男・忠尚(後・町田久幸養子)を産んだ。その後、島津家久の後押しもあり忠尚を後継者のいなかった町田本家の後継者とすることに成功するが、寛永3(1626)年4月23日に急逝。「町田氏正統系図」所収「町田大概記」の記述によると「黄門様(=島津家久)被成御下国、梅千代殿(=後の町田忠尚)六歳御時、懐(=宮原景辰女)被為相果候」とあり、「町田氏正統系図」「忠尚」386「町田久興覚」でも「梅千代殿御袋(=宮原景辰女)當春御成之時、依過言 上様御意被相違候、不幸而無程被成死去候、(以下略)」などと同様の記載がある。これらの史料や時系列、また島津家久の側室であるにもかかわらず島津家菩提寺である福昌寺に埋葬されていないことなどから見て、彼女は家久の機嫌を損ねたために自害した、と推測される。
宮原氏は諸県郡飯野郷(現宮崎県えびの市)や知覧郷(現鹿児島県川辺郡知覧町)にいた一族と思われるが「景辰」がどの系統に当たるか不明(『「さつま」の姓氏』)。景辰は町田忠尚の外祖父に当たると言うことで後に町田家の家臣となった(「町田氏正統系図」「忠尚」398〜400)。
※このHPの採取方針から外れるが、島津家久側室と言うことで特別に記載。
年度 (日本歴) |
年度 (西暦) |
年齢 | 出来事 | 出典 |
(年度不明) | 誕生。父・宮原景辰、母・不明 | 「島津家正統系図」家久 「旧記雑録」家分け「町田氏正統系図」等 |
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元和7辛酉 2月2日 |
1621 | 家久の六男・梅千代丸(のち町田久幸養子)を江戸の桜田藩邸で出産 | 「島津氏正統系図」家久 「町田氏正統系譜」忠尚 |
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(寛永元頃) | 1624 | 梅千代丸を町田家の養子にするに当たり、町田邸を訪問する | 「旧記雑録」家分け「町田氏正統系譜」忠尚 | |
寛永3丙寅 3月 |
1626 | 家久が鹿児島の町田邸を訪問する この時、嫉妬心から家久の機嫌を損ねたという |
「旧記雑録」家分け「町田氏正統系図」忠尚 | |
寛永3 4月23日 |
死去。法号「高岳妙崇大姉」 石谷永福寺に葬られる |
「旧記雑録」家分け「町田氏正統系図」忠尚 | ||
寛永4 11月 |
1627 | 宮原景辰女の供養料として石谷の田13石が石谷永福寺に寄贈される | 「町田氏正統系譜」忠尚 389「町田久守他四名連署寄進状」 |