高崎能宗女(町田久倍後室)

生年未詳〜寛永4(西暦)年1月24日<享年不明>

<略歴>
高崎能宗入道有閑の娘で、町田久倍の後妻となり、忠綱、久幸、早世した女子の3人の子供を産んだ。
文禄3年には京で豊臣秀吉の人質となっていた島津義久三女・島津亀寿の世話をするために夫婦ともに上洛した。しかし、夫・久倍は播磨国赤石浦(現兵庫県明石市)で関ヶ原の合戦前夜の混乱の中客死、その後の形跡がはっきりしないが、おそらく久倍の遺骨と共に敗走中の島津義弘一行に便乗して帰国した物と考えられる。
その後も島津義弘と贈答を交わすなど影ながら町田氏の興隆に尽力していたが、子供には全員先立たれ、しかも跡を継ぐべき孫に恵まれず、島津家久・宮原景辰女の子・忠尚を養子として向かえた。これにも能宗女の尽力があったという(「町田氏正統系譜」忠尚)。しかし、養子忠尚の実母・宮原景辰女の変死など混乱の中、没。


<年譜>
年度
(日本歴)
年度
(西暦)
年齢 出来事 出典
(年度不明) 誕生 父・高崎能宗、母不明 「町田氏正統系譜」久倍
(年度不明) 町田久倍と結婚
渋谷重政女の死後、後妻になったと見られる
「町田氏正統系譜」久倍
永禄7 1564 長男・忠綱出産 「町田氏正統系譜」忠綱
元亀3 1572 次男・久幸出産 「町田氏正統系譜」久幸
天正7 1579 女子を出産 「町田氏正統系譜」久倍女子
天正15
6月10日
1587 女子夭折(享年9歳)法号「天意妙晋童女」
石谷永福寺に葬られる
「町田氏正統系譜」久倍女子
天正15
8月
夫・久倍が夭折した女児の供養のために石谷永福寺に田畑を喜捨する 「町田氏正統系譜」久倍 222「町田久倍寄進状」
文禄2
8月24日
1593 長男・忠綱が朝鮮唐島(現大韓民国巨済島)で客死(享年29歳) 「町田氏正統系譜」忠綱
文禄3
3月
1594 夫・久倍と共に上洛
文禄元年より京に人質となっていた島津亀寿の身辺の世話をするためであった
「町田氏正統系譜」久倍 264「近衛前久書状」265「島津義久書状」
慶長4
8月10日
1599 この頃、まだ島津亀寿付きとなって在京 「旧記雑録」後編3−849
「町田氏正統系譜」久倍 287
慶長5
8月28日
1600 夫・町田久倍が播磨国赤石浦(現兵庫県明石市)で客死(享年不明) 「町田氏正統系譜」久倍
慶長5
9月15日
関ヶ原の合戦
その後配送中の島津義弘と共に薩摩に引き上げたと思われるが詳細不明
「島津世家」その他出典多数
慶長19
1月10日
1614 新年の挨拶の死者として町田久昌を加治木の島津義弘の元に使わす 「町田氏正統系譜」久幸 343「御日記抄」
寛永元
6月17日
1624 次男・久幸が江戸の桜田藩邸(或いは江戸品川宿)で死去(享年53歳)
江戸の豊島郡駒込吉祥寺に葬られ、遺髪だけが鹿児島の福昌寺に戻ってくる
「町田氏正統系譜」久幸
寛永元
島津家久の六男である梅千代丸(後の町田忠尚)を久幸の養嗣子として向かえる
この時、家久に強く働きかけたとされる
「町田氏正統系譜」忠尚
寛永4
1月24日
1627 死去。法号「月庭栄秋大姉」
この時80歳を越えていたとされるが没年不明
鹿児島福昌寺の西山に葬られる
「町田氏正統系譜」忠尚
寛永4
11月
高崎能宗女の供養料として石谷の田3斛が永福寺に寄贈される 「町田氏正統系譜」忠尚
寛永10
2月8日
1633 養孫・町田忠尚によって7回忌の法要が福昌寺でおこなわれる 「町田氏正統系譜」忠尚

<墓所>
福昌寺跡(現鹿児島県鹿児島市)
※現在の福昌寺跡には町田家の墓が見あたらなく、墓は消息不明になっている可能性高し。

高崎氏は「本藩人物志」によると大友氏の分家の一つ。大友守親の娘が島津家に嫁いだときに高崎氏も薩摩に移り住んだという。能宗は当初島津勝久の家老を勤めていたが、後に島津貴久の元で伊作地頭となった。

「諸氏系譜」町田氏忠綱項では永禄8年誕生とある

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