島津忠長女(島津豊久室 後 町田久幸後室)
元亀3(1573)年壬申11月17日〜慶長14(1609)年己酉3月2日<享年38歳>
<略歴>
島津義久の従兄弟にして家老であった島津忠長の長女。後に又従兄弟に当たる島津豊久の妻となる。天正12年頃に、父・島津忠長の家臣と豊久の父・島津家久の家臣との間でトラブルがあったことが分かっており、その仲直りの一環としての政略結婚だったのではと推測される。
秀吉の九州侵攻以降は、夫・豊久は小田原攻め、朝鮮出兵とかり出され、ほとんど一緒に暮らすことはなかったと思われる。関ヶ原の時には佐土原城で義弟・島津忠直と共に籠城し、伊東勢の攻撃から城の留守を守った。が、その城で、夫の惨死を島津義弘から聞く羽目となる。その後の消息ははっきりしないが、義母・樺山善久女や義弟と共に佐土原を退去し、実家に戻った物と思われる。
その後、慶長10年11月24日に先妻を亡くした家老の町田久幸と再婚したが程なく亡くなった。弟・島津忠倍らの哀悼の漢詩が「町田家正統系譜」に残る。薄幸の女性であったと思われる。
年度 (日本歴) |
年度 (西暦) |
年齢 | 出来事 | 出典 |
元亀3年 11月17日 |
1573 | 1 | 誕生。父・島津忠長、母・島津忠将女 | 「諸氏系譜」尚久「忠長」 |
(年度不明) | 島津豊久と結婚 | 「諸氏系譜」尚久「忠長」 「寛政重修諸家譜」 |
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慶長5 9月 |
1600 | 29 | 関ヶ原の合戦で、夫・島津豊久が戦死(享年31歳)。 この頃、佐土原城が伊東勢の攻撃を受けたために義弟・島津忠直や義理の伯父・樺山忠助と共に防衛に当たる。 |
「諸氏系譜」樺山氏「忠助」 「諸氏系譜」家久「忠直」 「本藩人物志」島津忠直 |
敗走中の島津義弘が佐土原城に立ち寄り、豊久の戦死を知らせる | 「関原御合戦記」 「本藩人物志」島津忠直 |
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(慶長10 11月〜 慶長14 3月) |
1605〜 1609 |
島津家家老・町田久幸と再婚する | 「旧記雑録」家分け 町田家正統系譜「久幸」 | |
慶長14 3月2日 |
1609 | 38※ | 死去(場所不明) 法号「松岩昌英」 | 「諸氏系譜」尚久「忠長」 |
福昌寺に葬られる | 「旧記雑録」家分け 町田家正統系譜「久幸」 |
※「町田家正統系譜」では高野山恵光院(現和歌山県伊都郡高野町)の供養塔に記載されている没年として「慶長14年2月2日没39歳」を挙げている。しかし、「町田氏正統系譜」「久幸」項や「諸氏系譜」尚久「忠長」項に出てくる物と異なるため38歳没が有力ではないかとしておく。
<墓所>
福昌寺跡(現鹿児島県鹿児島市)
※『島津歴代略記』に記載されている福昌寺の島津家墓地には彼女の墓の記載が無く、現在墓地は消息不明になっている可能性有り。