相良長泰女(島津家久(忠恒)側室、中の丸、やや?)

生年未詳〜元和9年6月14日<享年不明>

<略歴>
 球磨藩主・相良氏の分家の後裔である稲富(相良)長泰(長辰)の娘。慶長16年頃に島津家久の側室となり、島津久慶(日置島津家4代目当主)室(菊姫)、島津久雄(島津忠栄養子、永吉島津家4代目)を産む。鹿児島城内での住居から「中の丸殿」と呼ばれていたらしい(「旧記雑録」後編)。娘の菊姫は父・家久から都度都度書状をもらうなど、家久の子女の中でも突出した特別待遇を受けていた。そのためか、菊姫の婿である久慶も若くして家老に抜擢されるなど特別待遇されている。
本名は「やや」の可能性もあるが不明(「薩藩先公貴翰」305)。

 父・相良長泰は、朝鮮出兵の際島津義弘について各大名への連絡などを勤めている。関ヶ原の合戦時には島津家大坂屋敷に詰めており、島津義弘室島津亀寿らの脱出を助けた家臣で、島津家久側室の父親としては唯一功績を挙げている人物である。


<年譜>
年度
(日本歴)
年度
(西暦)
年齢 出来事 出典
(年代不明) 誕生。父・相良日向守長辰(後長泰)、母・不明 「島津氏正統系図」家久
慶長16年頃 1611 島津家久の元に側室として上がる 「家久公御養子御一件」
慶長19甲寅
8月5日
1614 家久三女(菊姫・島津久慶室)出産 「島津氏正統系図」家久
元和2
2月頃
1616 娘が麻疹を患う
この頃「中の丸殿」と呼ばれる
「旧記雑録」後編4−1325
元和3
3月1日
1617 伏見滞在中の家久から、宮中より銘「ふかり」なる琴をもらったことなどに関する書状をもらう 「旧記雑録」後編4−1383
「薩藩先公貴翰」305
元和8壬戌
8月11日
1621 家久八男(後の永吉島津家養子・島津久雄)出産 「島津氏正統系図」家久
元和8壬戌
9月23日
家久・菊姫と共に肝付兼武の屋敷で接待される 「旧記雑録」後編
「旧記雑録」家分け2肝付氏「肝付世譜雑録」7
元和9
6月14日
1622 死去 法号「月香妙雲大姉」 「御祭祀提要」

相良長辰(天文13(1544)年〜寛永6(1629)年5/26)は肥後球磨の領主である相良氏の末裔で、相良頼親の五男・相良頼貞の子孫とされる。島津忠国の頃に薩摩に移住、父は稲留氏を称していた。

「旧記雑録」所収のものには「元和3年」と朱書きが入っているが、手紙に島津久雄(福寿丸)の具合を尋ねる内容があることから、元和8年以降の手紙と思われる。

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