系図(島津氏<後藤家>)

<概説>
島津氏は平安末期に起源を持つ大族であるため分家も多数あるが、この「後藤島津」と言われる一族は奇妙な経歴をたどった分家で、鹿児島の島津家には一切関係史料が無く、三木靖氏が紹介するまで余り知られていなかった一族である。

相州家2代目・島津運久には晩年に数人の側室がいたようで、野間氏女もその一人であるが、もう一人別の側室がいたらしい。その側室との間には男子が生まれたが、運久が「伊作家・島津忠良を相州家の後継者とする」という契約の上で新納是久女と再婚したという経緯があり、この男子は後継者になることはおろか、島津家に残ることも許されなかったようなのである。そのため、この男子は出家し「長徳軒」と改名、足利学校に進学するため薩摩を去った。享禄頃のことと思われる。
長徳軒の乗船は駿河沖を航行中に嵐に遭い、海岸に流れ着いた長徳軒だけが助けられ、当時の駿河守護・今川氏親に仕えるようになる。長徳軒は仏教の他、軍事や医学にも精通した博学の人であったことから、氏親の要請により還俗して「島津忠貞」と名乗り三浦氏の娘と結婚する。その後、今川氏親の従兄弟に当たる北条氏綱の招きにより、忠貞は小田原へ移る。忠貞はそのまま今川氏には戻らず北条氏に仕え、永禄2年に北条家の武将として戦死した。
忠貞には6人の男子がいたが、その多くが北条家に使えたため、天正18年(1590年)の小田原北条氏の滅亡により浪人。その後は僧侶となったり、帰農した者が多かったようである。5男・忠正は北条家家臣・後藤少林の養子となり、その子孫は徳川秀忠に仕え、500石の旗本となった。「呉服師由緒書」(『徳川時代商業叢書』所収)によると、この系統は徳川秀忠・家光親子の上洛時の装束や秀忠の娘・東福門院和子の衣裳の管理を任されたことから後に幕府御用達呉服商「後藤縫殿允家」となり、幕末まで豪商として栄えた模様である。
なお卜部典子氏によると、幕末成立の資料集「視聴草」(みききぐさ)には「後藤忠正長女・大橋局は徳川秀忠のお手つきとなり身ごもったが、家康の上意により後藤光次の妾に下げ渡され、そこで産んだ子が江戸時代初期の豪商・後藤庄三郎である」という興味深い話が載っているとのことであるが、他史料との齟齬があり、詳細は不明である。

寛文7年(1667年)、後藤久利は時の鹿児島藩主・島津光久に島津への復姓を申し出る。長徳軒が薩摩を去ってからおよそ100年後のこの出来事に鹿児島側は困惑を隠せなかったと思われる。結局、島津家系図への記載は却下されたが、島津姓の名乗りは許可されたため、その後後藤忠正の子孫は「後藤島津」と名乗るようになった(但し、安永4年(1775年)9月3日に事情は不明だが再び「後藤」単独姓に戻している。)。

島津長徳軒忠貞の墓所は、現在も東京品川の東海寺にあるという。
また、現在も東京にある「一石橋」のたもとに後藤縫殿允家の屋敷があった。大正時代までは存続していたようだが、後藤家のその後の消息は未詳である。

 参考文献
『薩摩島津氏』三木靖(新人物往来社)
『「さつま」の姓氏』川崎大十(高城書房)
『徳川時代商業叢書』第一(国書刊行会)
『人物事典 江戸城大奥の女たち』卜部典子著(新人物往来社)

<系図>

(系図参考文献)
「清和源氏2 島津氏」(『系図纂要』名著出版)
『「さつま」の姓氏』
「呉服師由緒書」(『徳川時代商業叢書』第一(国書刊行会))


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