樺山善久女(島津家久室)
天文17(1548)年〜寛永6(1629)年3月22日<81歳>
<略歴>
島津貴久、義久の重臣であり、歌人としても著名な樺山善久の末娘。義久の弟・島津家久に嫁ぎ、女子3人、男子2人を産む。天正15年に夫・家久が変死したのちは人質として京に上る。関ヶ原の合戦時は伏見にいた模様(「本藩人物志」)。その後、退却する義弘と同行して佐土原に戻った。しかし、息子・豊久の戦死のために佐土原を去らねばならず、晩年は知覧で過ごした。知覧は次女・佐多久慶室の居所であり、次女を頼った物と思われる。
夫に先立たれ、長男は戦死、次男は「病弱」を理由に家の相続を固持したため、夫の建てた永吉島津家は島津家久(注:島津義弘の息子・旧名「忠恒」)の息子が相続、血統では本家に乗っ取られるような形となった。彼女の後半生は不幸な物であったと思われる。
夫・家久との中は良好だったようで、佐土原撤収の際も夫・家久の為に申し訳ないと踏みとどまろうとした話が伝わる(「旧記雑録」諸氏系譜、「本藩人物志」)。
年度 (日本歴) |
年度 (西暦) |
年齢 | 出来事 | 出典 |
天文17 | 1548 | 1 | 誕生。父・樺山善久、母・御隅(島津忠良女) | 「諸氏系譜」樺山氏 善久次女 「諸氏系譜」家久 家久長女 |
(年度不明) | 島津貴久四男・家久と結婚 | 「諸氏系譜」家久 家久長女 | ||
永禄9年丙寅 | 1566 | 18 | 長女(禰寝重張室、後離婚)出産 | 「諸氏系譜」家久 家久長女 |
永禄10年丁卯 | 1567 | 19 | 次女(佐多久慶室)出産 | 「諸氏系譜」家久 家久次女 |
元亀元年庚午 6月 |
1570 | 22 | 長男・豊寿丸(島津豊久)出産 | 「諸氏系譜」家久 豊久 |
天正2年甲戌 | 1574 | 26 | 次男・鎌徳丸(島津忠仍(=東郷重虎 後 島津忠直))出産 | 「諸氏系譜」家久 忠仍(忠直) |
天正5 2月3日 |
1577 | 29 | 次男・鎌徳丸を東郷重尚の養子に出す | 「諸氏系譜」家久 忠仍(忠直) |
天正11 | 1583 | 35 | 三女(島津久信 後 相良頼安室)出産 | 「諸氏系譜」家久 家久三女 「南藤蔓綿録」巻之九 慶長13年10月4日条 |
天正15年 6月5日 |
1587 | 39 | 夫・島津家久が変死する(享年41歳) | 「旧記雑録」諸氏系譜3家久「家久」 「島津世家」 他多数 |
天正16年戊子 | 1588 | 40 | 豊臣秀吉の命により、京に人質として上洛する | 「諸氏系譜」家久 豊久 |
慶長5年 9月 |
1600 | 52 | 関ヶ原の合戦後、敗走中の島津義弘に合流し京から脱出する | 「本藩人物志」島津忠直 |
佐土原城で、義弘より長男・豊久の戦死を聞く | 「関原御合戦記」 「本藩人物志」島津忠直 |
|||
佐土原の撤収に抵抗したが、兄・樺山忠助の説得により大隅に引き上げる | 「諸氏系譜」樺山氏 忠助 「本藩人物志」島津忠直 |
|||
慶長13 1月30日 |
1608 | 60 | 島津義弘に有川弥六右衛門を御機嫌伺いの使者として使わす | 「旧記雑録」後編4−419「加治木御日記」 |
寛永6年 3月22日 |
1629 | 81 | 知覧にて死去 法号「蘭香英春大姉」 | 「諸氏系譜」家久 家久長女 |