伊東義祐女(肝付良兼室 後 杉田宗盛室、高城)

生年未詳〜慶長11(1606)年6月18日<享年不明>

<略歴>
日向の戦国大名・伊東義祐の長女で、大隅の戦国大名・肝付良兼に嫁いだ。結婚後は居所の志布志高城より「高城殿」と呼ばれた(「旧記雑録」家分け1肝付氏「新編伴姓肝属氏系譜」他)。この当時、伊東家は日向一国を制する勢いがあり、また、肝付氏も大隅を掌握して薩摩の島津氏を圧倒する勢いがあり、この結婚は両家の同盟を結ぶための政略結婚であることは明白であった。
良兼との間には1男2女に恵まれたが、その一男が夭折、また夫・良兼も急逝したために姑・島津御南と相談の上、一女を良兼の異母弟・肝付兼亮の妻として後継者とした。しかし、兼亮夫妻の仲が最悪だったことに加え、島津家の急拡大などによる周囲の状況の変化などにより、のちに肝付家を出て実家・伊東家に脱出、伊東家家臣・杉田宗盛と再婚したという。しかしこの杉田宗盛も伊東家帰国後に内紛に巻き込まれて横死し、その後は人質役を務めるため京に移り、故郷に戻ることなく亡くなった。
実家の栄枯盛衰に巻き込まれた不運な女性であったのではなかろうか。


<年譜>
年度
(日本歴)
年度
(西暦)
年齢 出来事 出典
(年度不明) 誕生 父・伊東義祐、母・側室荒武氏
長女であった
「旧記雑録」家分け1肝付氏「肝属氏系図文書写」
「日向記」6−6
「伊東氏大系図」
(年度不明) 肝付良兼と結婚 「旧記雑録」家分け1肝付氏「肝属氏系図文書写」
「日向記」6−6 他
(年度不明) 長女(後伊地知重昌室・伊地知重順母)出産 「旧記雑録」家分け1肝付氏「新編伴姓肝属氏系譜」16
(年度不明、天文24〜永禄2年) 1555

1559
長男・満寿丸出産 「旧記雑録」家分け1肝付氏「新編伴姓肝属氏系譜」16
(年度不明) 次女(肝付兼亮室 後 肝付兼道前室)出産 「旧記雑録」家分け1肝付氏「新編伴姓肝属氏系譜」16
永禄2頃 1559 長男・満寿丸死去(?) 「旧記雑録」家分け1肝付氏「新編伴姓肝属氏系譜」16傍注
元亀2
7月31日
1571 夫・肝付良兼死去(享年37歳・33歳説も) 「旧記雑録」家分け1肝付氏「新編伴姓肝属氏系譜」15
元亀2頃 義理の弟・兼亮と娘(肝付良兼次女)を結婚させて、良兼の後継者とする 「旧記雑録」家分け1肝付氏「新編伴姓肝属氏系譜」15
天正2頃 1574 この頃から娘(肝付良兼次女)と不和であることを理由として、兼亮を嫌うようになる 「旧記雑録」家分け1肝付氏「新編伴姓肝属氏系譜」14
天正3
11月
1575 肝付兼亮が姑・島津御南と肝付家の家臣により追い出される
娘(肝付良兼次女)を義理の弟・肝付兼道と再婚させる
「旧記雑録」家分け1肝付氏「新編伴姓肝属氏系譜」15
天正3
12月
父・伊東義祐が高城を引き取るため河崎駿河守、河崎紀伊守らの率いる100人(或いは200人余り)余りの兵を送る 「旧記雑録」家分け1肝付氏「新編伴姓肝属氏系譜」19
天正3
12月13日
肝付家臣・薬丸兼将が櫛間で義祐の使者を拒絶
その後志布志にやってきた義祐の使者も拒絶
「旧記雑録」家分け1肝付氏「新編伴姓肝属氏系譜」19
天正3
12月23日
義祐の使者が波見にやってくるが再び肝付家臣らが拒絶
河崎紀伊守が残留して高城の返還を強く訴える
「旧記雑録」家分け1肝付氏「新編伴姓肝属氏系譜」19
天正4
〜天正6
1576〜
1578
この頃、実家の伊東家に引き取られる
しかし、伊東家が日向を追われていたため都於郡照覚院に隠棲する
「旧記雑録」家分け1肝付氏「新編伴姓肝属氏系譜」19
「日向記」10−7
天正6
1578 都於郡の地頭となった島津家家臣・鎌田政近と和歌のやりとりを行う 「日向記」10−7
(年度不明) 杉田宗盛に再嫁 「日向記」10−7
天正8 1580 肝付兼道が薩摩国阿多に転封される
この頃、兼道が娘(肝付良兼次女)と不和のため離婚、娘は伊東家に引き取られる
「旧記雑録」家分け1肝付氏「新編伴姓肝属氏系譜」17−396「肝付兼親覚留」
「旧記雑録」家分け1肝付氏「新編伴姓肝属氏系譜」19
天正16
3月2日
1588 夫・杉田宗盛が自殺(享年52歳)
伊東家再興に果たした功績をねたんだ周囲の讒言による物とされる
「日向記」10−7
慶長8
正月
1603 伊東祐兵正室(伊東義益女)らと共に徳川家康の人質となるため上洛 「日向記」13−4
慶長11
6月18日
1606 摂津大坂で死去 法名「玉山元空」 「伊東氏大系図」

「伊東氏大系図」では「籾木腹」と書かれており、母は籾木氏となる。

天文24年12月19日付の姶良若宮八幡社の棟札(「肝付文書」125(『鹿児島県史料』家分け2所収))に「満寿麿」という名前があり、生年は更に遡る可能性もある。

「日向記」によれば
鎌田政近が”普賢象の桜”を見て「確か普賢象の桜は船橋という別名があった」と思い
 「折捧ぐ華を悟れる人ならば渡り玉へや法の船橋」
と送ったところ、伊東高城は
 「船橋と夢にや人の云渡る華は仏の名にこそ有りけれ」
と送り、日向では「鎌田は花の別名も知らない無粋な輩」という悪評が立ったために、都於郡の地頭を解任されたとしている。
しかし、「本藩人物志」などにみえる鎌田政近の伝記を勘案すると、この”解任”は肥後方面に配置換えになったためと考えられ、この和歌による悪評が原因の”解任”とは考えにくい。

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