東福寺即宗院の履歴(1000hit記念)


 即宗院正門(これは2003年秋に撮影した物です)

東福寺の中に島津家の菩提寺として塔頭が作られたのは室町時代。
島津本宗家の7代当主だった島津氏久(1328〜1387)が剛中玄柔(東福寺第五十四世住持、1262〜1338/5/27)を開山として建立した。剛中玄柔は島津家の出身であったという。「即宗院」の名前は氏久の戒名「齢岳立久即宗院殿」から取られた。
ところで東福寺は臨済宗だが、島津氏の宗旨は同じ禅宗でも曹洞宗である。何故に氏久が宗派の違う寺に菩提寺を作ったのか謎。

ちなみに最初即宗院は成就院の南に立地していたという。
東福寺に現在「成就院」という塔頭はないが、南側に成就宮という神社があるから、その近隣に即宗院はあったのだろうか。


しかし、戦国時代の戦乱に巻き込まれ、即宗院は永禄13(1569)年に全焼してしまう。
その再建を申し出たのが16代の当主だった島津義久である。
が、実際に再建できたのは義久の死後2年たった慶長18(1613)年であった。場所は元々建っていたところから現在ある場所へ移動している。慶長18年から現在まで即宗院のある場所は平安末期に藤原忠通が息子・藤原(九条)兼実に相続した別荘「月輪殿」のあった風光明媚な場所である。現在即宗院に残る庭はこの「月輪殿」が建った頃に造営された物ではないかと考えられている(『奈良文化財研究所 学報3』「藤原兼實建立の御堂二三について」) 。
ところで、実際に即宗院の再建を行ったのが18代当主とされる島津家久だが、このころ家久は義久の供養と称して高野山蓮金院に義久の木像を納めたりしている(「島津世家」)。ところが、その後の管理はいまいち行き届いてなかったらしく、家久の息子・光久が寛永末年に高野山の義久の供養塔について尋ねたときには「石塔は傾き倒壊も時間の問題」という有様だった(「旧記雑録」後編6)。
この時期だけ家久が義久がらみで頻繁に寺院への寄付や建立を行った背景には何か下心がありそうだ。でもここでは深くつっこまないことにするヾ(^^;)

その後、即宗院は島津家の菩提寺として庇護を受ける。
しかし、何よりも即宗院を有名にしたのは、幕末に尊王攘夷派の薩摩藩士の宿所の一つになったことであろう。特に即宗院は東福寺の中で一番高所に立地していたために戊辰戦争時には幕府軍を追撃するための大砲が設置された。

幕末に脚光を浴びた即宗院だが、この明治維新が即宗院にとって大きな打撃となった。廃仏毀釈で島津家の庇護を失い、その後建物も失ってしまう。
現在昔からの物で即宗院に残るのは、平安時代に作られた月輪殿の遺構という庭と西郷隆盛が揮毫した戊辰戦争時の薩摩藩士の追悼碑だけである。


(おまけ1)
義久が東福寺龍吟庵東堂宛に出した書状が平成16(2004)年にオークションに出たらしい。
元々は即宗院が持っていた物だとか。→こちら 誰か解読して(オイ)

(おまけ2)
東福寺自体はそもそも九条家の菩提寺として建てられたが、その後、九条家の分家である一条家もこの寺を菩提寺とするなど次第に摂関家その物との結びつきが強くなったらしく、島津氏と懇意にしていた近衛前久・信尹親子の墓もこの東福寺にあった(が、その後明治時代に大徳寺に移築されてしまった。詳しい事情はこちらへ)→極める京 東福寺


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