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高雄山神護寺


四条大宮からバスで40分弱(但し渋滞しているとき+京都市バス利用ではこの限りではない)で高雄バス停に到着します。

 市バスとJRバスのバス停がちょっと離れて(^^;)立っています。

ちなみに左手奥に見えるのは市バスの回転地で駐車場ではないので注意。
一応、ここが高雄山神護寺の最寄りのバス停です。


が。
 バス停近くにある石碑。
このすぐそばに階段があるので降りて行くが…

…延々と階段を下りていくので、正直「これであっているのか?」と心配になる。京都市営地下鉄構内によく張ってある神護寺の写真は急傾斜の石段の上に山門があるものですからね。
ようやく一番下まで降りる(5分ぐらい?)と、清滝川とそれをわたる風情ありげな朱欄干の橋が見える。
 ちょっと一昔前の観光地という雰囲気が何とも。

橋の向こうには  石段が見える。これを登れば、いよいよ神護寺…
  え?(?_?)
この写真では見えませんが、右の白い看板に「ここから山門まで約10分」と書かれております。長い階段を下りてきたのに、今度は一気に登りかよ_| ̄|○ かえって登りばかりの参道より、精神的ダメージは大きい…。
ぜぇぜぇ→途中に誘惑するような茶屋もあり(2軒もある)→
まだまだ→振り返ると、降りてきたバス停が(建物のあるあたり)
 この付近には空海超人伝説の一つ「硯石」がある。説明はこちら。更に登ると…
 ようやく山門が見えてきました…
恥ずかしながら、山門の前に付いたときには息も絶え絶え、日頃の運動不足を痛感させられました。…ところが!途中の茶屋にはなぜか駐車場があり、軽トラックも止まっていました。…どこかに車で上れる裏道があると見た(;¬_¬)

神護寺の略歴
 平安京造営の頃、和気清麻呂が建てた「愛宕五坊」の一つで当初は「高雄山寺」という名前だった。その後、同じ和気清麻呂創立の河内国神願寺と合併し「神護国祚真言寺」(じんごこくそしんごんじ)と改名。当時の朝廷での権力者であった和気氏により最澄、空海らの名僧が招聘される。特に空海は大同4年(809年)〜弘仁14年(823年)の14年にわたり住持となり、ここを京都での本拠として活躍、神護寺は以後、東寺、高野山と並ぶ真言宗寺院の代表となる。
 その後、2回の火災に遭い和気氏の衰退もあって、神護寺も衰退していたが、鎌倉時代に文覚上人によって再興される。この文覚上人というのは「傑僧」とも「怪僧」とも言われた人物であった(くわしくはこちら)。
 その後応仁の乱で大師堂以外の建造物をすべて失い再び衰退する。現在の寺観は元和9年(1623年)に当時の京都所司代・板倉勝重によって再興された物である。また、現在の金堂と多宝塔は昭和10年(1935年)に山口玄堂氏の寄付で再建された物である。
 ちなみに現在京都御所西横(烏丸下長者町)にある護王神社は元々この神護寺の境内にあった神社が明治時代に移転した物である。


毎度おなじみいい加減な神護寺境内図 ※クリックすると該当の説明に飛びます

 山門(境内側から)
山門には通常仁王像が入っていますが、ここは四天王のうち持国天と増長天が納められている。
写真で見て分かるように、急な階段の上には広々とした境内なので、落差が大きい。空海の絡んでいるお寺は高野山にしてもここにしても「えげつない斜面→広い境内」と言うところが多いような気がする。
…しかし、この境内。鬱蒼とした高山寺より藪蚊が多かったのであった。そりゃ、日頃運動不足なので汗かきかき登ってきて「かのみなさんよってらっしゃい」状態でしたけど、これはひどかった。

 書院と宝蔵 現在の再建のようで、非公開。


 和気清麻呂廟
朱塗りの塀と建物という、まるで神社のような建物は、この神護寺の創始者である和気清麻呂の廟所。実際の和気清麻呂墓は背後の山の上にある。先述の護国神社との関係は不明。


 明王堂
鐘楼に行く階段を挟んで和気清麻呂廟の反対側にあるお堂。江戸時代の再建。


 鐘楼
明王堂と和気清麻呂廟の間にある階段を上っていく。中には平安中期頃に製作され、藤原敏行筆の願文が掘られた国宝の梵鐘が釣られている。もちろん非公開_| ̄|○


 五大堂  毘沙門堂
両方とも、江戸時代初期に徳川幕府により再建された物。
毘沙門堂は昭和10年に現在の金堂が出来るまではこちらが「金堂」であった。
五大堂と毘沙門堂の遠景はこちら 高台(現在の金堂)から見た遠景はこちら

 大師堂 ※クリックすると横からの写真を表示
弘法大師がすんでいたところ…といっても、現在の建物は織豊時代の再建。国重要文化財。


 金堂
五大堂の真後ろ(!)に出っ張っている石段を上がるとこの巨大な金堂が鎮座。先述したように昭和10年の再建である。中でお札を売っている(監視員でもあるんだろうけど)お坊さんはあまりに暇なためか居眠りされてました(^^;)
ちなみにここの本尊は神護寺建立当初からある薬師如来像(国宝)。神護寺が所有する数多い国宝の中で、常時拝観できる国宝はこれだけである。見落とさないように!
上(多宝塔)から見下ろした金堂の写真はこちら。実は裏側に回ると結構落書きがひどかったのがむごかった。

  多宝塔
(左)多宝塔全景 (右)多宝塔遠景(?)
金堂の横にある山道(一応看板が立っているが見落としやすいので注意)を登っていくと、金堂と同じ時期に再建された多宝塔がある。中には平安初期製作といわれる五大虚空蔵菩薩像(国宝)があるが、残念ながら非公開。
それにしても身近で見たらでかすぎ、下からみると木で全く見えない多宝塔なのであった。

そのほか、
金堂の裏から山を登っていくと中興の祖である文覚上人の墓
大師堂横から山を下りると絶景+かわらけ投げの名所である地蔵院
がありますが
藪蚊がコワイのでパスしました。ヾ(^^;)

この寺は、慶長4年(1599年)に家老・伊集院忠棟を斬り殺した島津忠恒が石田三成の譴責を逃れるために一時退去した寺として史料に残っています。
ただ、先述「神護寺略歴」の通り、この時期の神護寺は大師堂以外は建物が残っておらず、豊臣政権から攻められるおそれがある武将をかくまえる状態にあったとは思いがたいです。
地理条件を見ても、確かに清滝川を挟んでアップダウンの激しい立地にありますけれど、現代人の私にはきついですが、戦国時代当時の人にはたいしてしんどくもない場所にあった寺と考えられます。
また、神護寺と島津家の直接的な縁は調べた限りでは見あたりませんでした。

こうしてみると、島津忠恒が一時避難する寺として神護寺を選んだ理由は全く分からないのです。
戦国時代の島津家と神護寺のつながりには結構大きな謎が含まれているのかもしれません。

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